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イボバッタのように死ねるなら
数日前に雨が降っていた。
休日の雨だった。
休日の雨を嫌う人達の気持ちは分かる。
行動が制限され、予定に狂いが生じるからだ。
自分は比較的、休日の雨を好いている部類だと思う。
都内に居ない時は基本的に車での移動だからというのもあるが、雨の日は家で何もしないで過ごしても良いというお墨付きを天から戴いている気がする。と勝手に思っている。
天が言うなら仕方なし、と勝手に納得して部屋で過ごす。
天の恵み、恵みの雨と言うには少し後ろ向きだが。
気圧や気温による体の不調もまた、何もしなくていい理由に拍車をかける。
自分は幾つかの理由があって、自殺という選択肢を選べない。そのうちの一つは後述する。
でも、ひょっとしたら気圧が、寒さが、自分を道半ばで殺してくれるかもしれないと思いながら生きる。
特に冬を生きる。
冬の自分は活動が低下するが、内心では他の季節よりも生き生きとしているかもしれない。
自分は四季に殺される事を望んでいる。
野生動物と同じように、四季に追い詰められる事を望んでいる。
しかし、不摂生の末に弱った命を奪ってほしいわけではない。
不可抗力で、頑張った上で、気をつけていたのに、これからだったのに、「仕方ないね」「惜しい人を亡くしたね」と言われる形で、四季に殺されたがっている。
惜しまれるために、道半ばで殺されたがっている。
何も完成させる事がなくとも、外的要因でこの世から退場すれば、遺された者は勝手に「可能性」や「未来」を想像して惜しんでもらえるものだと知ってしまったから。
それに加えて、自殺と違って遺された者が「自分が何かしてあげられたかもしれない」と負い目を感じなくて済むからというのも大きい。
多くの遺族を見届けた経験に由来するのかもしれない。
それでも、自分を大切に思っている人がいる上で、自らの無謀を以って命を擲つ生き方は流儀に反すると思っている。
あくまでも「不可抗力が起きてしまうならば、生きようとした上で命を奪われたい」という話。
自分の祖父は、家族に看取られながら老衰により旅立った。
それができるのなら越した事はない。
そうして祖父の最期に憧れる事こそが祖父への供養になると信じている。
しかし、それとは全く異なる最期にも憧れを持っている。
自殺を選べない理由の一つであり、憧れた最期。
自分は心身の具合が悪くなる、もしくは季節の変わり目に、とある事を思い出す。
子供の頃に庭で見た、霜に包まれ寒さに凍えていたイボバッタを必ず思い出す。
一見、そのバッタは死んでいるようにも見えたが、触角やその佇まいから、生きている事を直感した。
自分は「踏み潰してあげようかな」と思った。
午前6時頃。
— トモロウ (@Day_after___) November 9, 2017
じっと寒さに耐えていたイボバッタ。
日が高く昇る頃にはどこかへと姿を消していた。
果たして今日を生き延びられるだろうか。 pic.twitter.com/ts6gDzEMXF
物心ついた頃から虫を殺す事を好まなかった自分だが、いつしか致命傷を負って苦しんでいる昆虫を見かけたら「これ以上苦しまないように」との思いで踏み潰すようになっていた。
今思い返しても、そこに快楽の感情は一切無かった。ただただ苦しかったが、それが1番早く楽にしてあげられる最善だと信じていた。
それを悲劇のヒーローやヒロイン的な陶酔と仮定するならば、純粋な苦しみではないのかもしれないが、そこから20年以上を生きて様々な陶酔を経験した上で思い返してみても「ただただ苦しかった」という感情だけが心を埋め尽くしていたように感じる。
話を戻す。
今にも死にそうに凍えていたイボバッタを見て、自分はこれ以上イボバッタが苦しまないよう、踏み潰して終わらせてあげようとした。
しかし、そう思い立って動こうとした矢先、イボバッタは先の千切れた両前脚で目の前にある枯草を掴み、自らの口に運びはじめた。
機械的な生物である昆虫に感情を投影する事は些か無粋かもしれないが、少なくともこのバッタはこの先を生きようとしていた。
「踏み潰して"あげよう"」「終わらせて"あげよう"」といった、烏滸がましい動機のもとで殺生をしていた自分が、心底恥ずかしくなった。
イボバッタの眼に、心の底の恥すらも見透かされたような錯覚を起こした。
イボバッタの目の前に立つ事さえも恥ずかしくなり、逃げるようにその場を去った。
その際、感じた恥と同じくらいの強さで、「どうか生き抜いてほしい」とも願ったはず。
翌日、その現場を見に行くと、"生きようとしたイボバッタ"は消えていた。
どこに行ったのかは分からない。
どうなったのかも分からない。
確実に分かる事は、最終的に微生物を含む誰かの貴重な栄養源になったという事だけだった。
それからは、あのイボバッタに憧れ続けた。
今日に至るまでずっと。実に20年以上も心の中に在り続けた。
人生において"自殺"という選択肢が脳裏に浮かぶ時、"生きようとしたイボバッタ"の情景も鮮明に浮かぶようになった。
心身の優れない時、あの日のイボバッタのように、と想いを馳せながら、生きるために動く。
または、眠る。
前のめりに死なせてくれる夢を見ながら、望みながら。
ネットにしがみついているイボバッタを発見。息を吹きかけても手を叩いても微動だにしません。
— トモロウ (@Day_after___) September 24, 2021
地表性バッタですが、通常ではありえない地上から1メートルほどの高さにいました。
恐らくエントモファガ・グリリというカビに寄生されて操られ、胞子が拡散しやすい場所に登らされているのだと思われます pic.twitter.com/s3Jjg1L5UW
通称"バッタカビ"
(学名: Entomophaga grylli)と呼ばれる菌類に寄生され、コントロールされたイボバッタ。
生時の見た目とほとんど変わらないが、内部では全身が菌に侵されている。
寄生された昆虫は菌が拡散しやすい高所へと移動した後に、障害物にしがみつくように筋肉が収縮して亡くなる。
宿主が死亡して数日でバッタカビが体表に進出し、高所から胞子を撒き散らす。