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「適量」という言葉への苛立ち
「分量:適量ってなんやねん。
ムカつくわ〜。」
小学生のトモロウは、雑誌のレシピと共に料理をしながらそう呟いた。
子供ながらに苛立ちを覚えた。
しかし、あの頃の自分は「適量」という曖昧な言葉そのものに苛立つかのような態度で、その内心は「適量」がどの程度か分からない己の無知さに苛立っていたのかもしれない。
それを隠すように、否定や冗談を口にして振る舞っていたのかもしれない。
自分が教えられていない暗黙のルールで社会が円滑に動かされている事に苛立っていたのかもしれない。
分からないから知ろうとする事もあれば、分からないから苛立って放置した事もあった。
届かないから理由を付けて距離を置いた事もあった。
特に後者は往々にしてあるようで、イソップ寓話の時代からすでに「すっぱい葡萄」として知られている。
あらすじ
お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。
狐が己が取れなかった後に、狙っていた葡萄を酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると自己正当化した物語が転じて、酸っぱい葡萄(sour grape)は自己の能力の低さを正当化や擁護するために、対象を貶めたり、価値の無いものだと主張する負け惜しみを意味するようになった
誰かや何か、特に流行り物や言い回しに苛立ちや嫌悪感を感じる際、まず「すっぱい葡萄」を念頭に置いて考えるようになった。
それからは、苛立つ事がほとんど無くなった。
多少の事象や理論は違っても、似たような感情の根源に辿り着く。
同じく小学生の頃は、自分の知らない話題、分からない話題で盛り上がる世間にも苛立ちを感じる事があった。そうしたものに悪態をつく事が己のアイデンティティだと信じていた。
手を伸ばせば届くものに、手を伸ばさないための理由を付けていた。
すっぱいねェ。
すっぱいすっぱい
すっぱいすっぱい!!
すっぺぇ時の戸愚呂弟。
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中学生までにはそれがほとんど治ったが、死ぬまで治らない人もいるだろうし、加齢と共に体は重くなり、流行も追えなくなるものなので、いずれ再発する可能性は大いにあるだろう。
流行りを追わなければ、流行りに追いつけない自分に気付かずに済む。
アップデートをしなければ、アップデートできない自分に気付かずに済む。
アンテナの錆に気付かずに済む。
この自己保守的思想は、ぬるま湯に体を浮かべて微睡むように、疲れる事なく心地が良い。
浸かる湯が冷えてしまうまでは。
流石に28年も考えっぱなしで生きると、ぬるま湯と熱湯の中間、適温は把握できた。追い焚きのやり方も覚えた。
自分自身の最適温度は、世間の話題や流行を程々に取り入れて生きる事で保てるのだと、最近になってようやく気付けた。
追いすぎると疲れるという当然な話も、同じく最近になって気付けた。
程々が良い。適温が良い。適量が良い。
「適量」の正解は「自分の好きな量を入れろ」「自分が美味いと感じる量を入れろ」なのだと、料理をしながら肌で覚えたのはいつ頃だったか。
アナタが好きなように
作ればよろしい
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一緒に
食べよか
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