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冗談でござい。貫く怒号。若きユーモア。



今から10年以上前のとある中学校。
自分は窓際の最前列の机で本を読んでいた。
この学校では朝の出欠確認の後、15分程度の読書の時間が設けられており、その最中には校内放送でクラシックも流されている。
そのルーティンが変わる事なく卒業まで繰り返されるだけの日々と思っていたが、その日だけは少し違った。


読書時間の開始を告げる放送委員の声が響く。


「朝の読書の時間です。みんなで聖書を読みましょう(笑)」

明らかに"冗談でござい"といった半笑いの声で彼はそう言った。スピーカーを通して、校舎の全員に彼の"ユーモア"が伝えられた。


そういえば朝に校門前で何か配ってる人達がいたな。あれは宗教関係の冊子だったのか。それをネタにして放送委員がウケようとして言ってるんだな。
そんな程度の事がいくつかポツポツと頭に浮かんでいた最中、突如、担任の声が耳をつんざいた。

























恰幅が非常に良く、かつ厳格な事で有名な担任は自身の机に手を強く当て、すっくと立ち上がり、素早く教室の出入り口に顔を向けながらそう言い放った。
その後、足早と言うには速すぎる勢いで放送室へ向かって行った。
自分の席は担任のデスクの真正面だったため、教室でのその一部始終と、非常口マークそのものといった走行姿勢の担任が、今でもハッキリと目に焼き付いている。その時に流れていた曲は「G線上のアリア」だったはず。



"ユーモア"を披露した放送委員の彼は相当な叱責を喰らったのだろう。
そもそもあまり面白い冗談とは思わなかったが、考えてみれば相当に失礼な話だ。あの宗教を信仰する人達と他宗教の人達の両方に非礼が生じている。


しかし、「おもしろ」を目指す者達が若い頃にやってしまいがちな、やらかしエピソードの一つと言えば、まあ納得はできる部類の話だろう。
仮に自分が面白い人だと思われたい欲求を抱えたまま放送委員になったとしたら同じような"ユーモア"を披露してしまっていたかもしれない。
人と違った部分を衆目に見せつけたいと意気込んでいたはずだ。



そもそも、放送委員という立場自体、何者かになりたい誰かがアイデンティティを披露するためのものなのだという偏見が小学生の頃からあった。
変わったアニソンやニコニコ動画から落としたであろうネタ曲、MADが給食の時間に流れる光景は平成を生きた一部の者になら懐かしく感じられるかもしれない。放送を不愉快に思ったヤンキーがスピーカーのボリュームをゼロにする場面を見ることもあった。気持ちは分からないでもない。


かつての自分はそうした放送委員の姿勢があまり好きではなかった、ひどく青臭い自己表現の場。
しかし、それが青い春だった者もいるのだろう。
思い出しては溢れ出る恥。それに耐えかね、枕に顔を埋める事で成長できた者もいるのだろう。
あの日から何も変わらずに、自分のアイデンティティを求め続ける大人もいるのだろう。



それら陰の者たちの魂が、いつか救われる道へ向かう事を日々願っている。
自分自身が道半ばだから。

改めて祈りを捧げようと思い、スーツのポケットに手を入れる。
仕事で使ったロザリオや数珠が雑多に絡まる物体をまとめて握る。


非礼や冒涜の象徴であるかのようなそれをそのまま使って十字を切り、軽く祈り、その日の昼休憩を終えた。


























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