相互理解なんてないということ、だから話をしたいということ。
暖かいコーヒーが、
少しずつぬるくなるような、
秋の入り口に、
雨がぽつぽつ降ってるみたいな、感じ。
夏に炭酸がはじけるみたいな爽やかさじゃなくて、明るさじゃなくて、
むしろちょっとどろりとしていたり
さみしかったり、たまに救いとか祈りとか、
そういう対話を積み重ねたいんだ。
手を繋いで堤防の上を歩きたいんじゃない、
屋上で叫びたいんじゃない、
サイダーを分け合いたいんじゃない、
本当はね、でも、これは嘘だけどね、でもいい。
あなたの言葉を聞きたいんだ。
知らないって弱い。
こんなにもずっと一緒にいたのに、私は彼のことを何も知らない。
家族構成とか、趣味とか、嫌いな食べ物とか、そういう、もし彼のクローンが現れても何も見抜けないような、そんな表面的なことしか知らない。
あなたの言葉を、私は知らない。
私と、それからあなたの話がしたい。
あなたを聞きたい。
人と人が理解し合うこと、私はそんなこと、
あり得ないと思っている。
相互理解なんてないのだ。
しかしそれでも話すこと。
相互不理解を理解する、
そして妥協点を探すこと。
これこそが対話の意義であり、
重要性だと思うのだ。
あなたと私は分かり合えない、
だけどあなたの横顔を窺うことはできて、
あなたのそばにいることだってできる。
どうせ私たちは傷つけ合う。
私たちがそれぞれ違うこころと身体を持っている時点で、どれだけすり合せても齟齬は生じるはずであり、近づいたり、離れたりして、互いを知っていく。
相互理解ではない、話す、というフェーズを通して私たちは互いを知り、相互不理解を理解していくべきなのだ。
そういうふうに、私は思う。