ともす横丁vol.26「幸せ」と「幸い」について

 人は「幸せ」になりたいという。哲学者アリストテレスは、「幸福こそは究極的・自足的な或るものであり、われわれの行うところのあらゆることがらの目的であると見られる」(「ニコマコス倫理学」(第一巻/第七章))と述べている。人は約二千年も前から幸せを希求し、今や幸福学という学問として、科学的に捉えようとしている。分析する対象に立ち位置を変え、いかに幸福度を上げ得るか力を注いでいる。幸福学を履修し、日々意識して実践すれば、幸せに到達できると言われているようだ。

 目指す幸せは、人によって違うだろう。地位や名誉、お金など社会的、経済的成功もあれば、愛する人にめぐり会うなど人との関係性、スポーツや研究においては卓越した優位や新たな発見や真理を見出したとか。いずれも何かが叶う、到達する響きがある。ということは、それが叶わない、到達しなければ不幸というのだろうか。

 幸せであることを目的とすればするほど、今は幸せなのかと問いが立ち、無意識に人生の、あるいは自分への物足りなさに苛まれることがあるのではないかと思う。それは不安や不満となって外へ、あるいは自責的な念となって内へ向かわないか。

 幸せを目標と捉えると達成すべきものというニュアンスが含まれるが、願いというならどうだろう。願いという時、自分一人で行うものではなく、聞き届けてくれる存在、大いなるものとの対話という要素が含まれて来るようだ。

 日本には、「幸い」という言葉がある。おかげさまの心と言ってもいいかもしれない。目に見えない力の存在をどこかに感じている在り方だ。私たちは、日々小さな幸いに遭遇している。朝目が覚めることも、ごはんが食べられることも、出かけた人が帰ってくることも。幸いは恵みとして与えられるものだ。あたりまえすぎて気づかないかもしれない。でも、よく見れば、見つけることはできる。

 大きな幸せはなかなか巡って来ないかもしれないが、小さな幸いは毎日ここにある。幸せを掴み取ることができなくても、幸いは見つけることはできる。その小さな幸いの積み重ねは、やがて幸せとなって育まれていくのではないかと思っている。

 そう、あったかいお風呂に浸かって、あ~幸せって思わずつぶやくような。

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