ともす横丁Vol.23 記憶の残渣
昨年の暮れ、街が赤や緑で彩られていた頃のことです。
急に首や肩の凝りが激しく感じられ、この時期は寒いからねなんて思っていたら、そのうち全身のだるさに。これはなんか変…と感じつつ、最近あれこれ慌ただしかったから疲れが出たのね、寝てればよくなるはず、とふとんを被って寝込んだんです。
でも、眠れない。いや気づけば目が覚めているから寝てるんですけど、寝てる感じがしない。身体と頭が分離したように、コントロール不能になった飛行機みたいに頭の中がぐるぐると回旋しつづけてる感じです。ああ、一体私に何が起きているんだろうとぼんやり思い浮かびつつも、ただひたすら横になって、頭の中に降ってくる映像を覗き続けている感覚。
それは、過去の記憶の断片が浮かんでは消えていく走馬灯のよう。こんなこと覚えているんだという記憶の断片。何気ない日常の1コマだったり、観た映画のワンシーンだったり。過去に起こったことはすべて記憶され、私の中にしまい込まれていることを知らせるように。ただしまい込んで忘れているだけ。層になって沈殿して積み重なって、何かのきっかけに舞い上がり浮かび、またゆらゆらと層になって沈むコトとして。
仏教の一つの考え方である唯識に、「薫習」という言葉があります。
平安時代、お香を焚きしめ着物に香りを纏わせたように、人は気分や行為を培い、それが無意識のうちに自分の深いところに留まるというもの。そしてそれはやがて種となり、自分の中に育まれ、花を咲かせていくといいます。ひまわりはひまわりに、たんぽぽはたんぽぽにしかなりません。だとしたら、自分の種はどんなものなのか、どんな気分や行為を積み重ねているのか、気づいているのでしょうか。
うなされたのは、インフルエンザによる熱のせい。現象を説明すればそういうことになるのでしょうけれど、私には貴重な体験でした。情報としてでなく、体感できる機会をくれたのですね。
一旦、浮かび上がった記憶の断片はまた沈み込み、何を思い出したのかさっぱり思い出せなくなりました。澱のようなものが消えてなくなったのかもしれません。人間の意識と身体はつながって、時に顕在意識では理解できない不思議なことをするのでしょう。
人は今この瞬間にしか生きられない、生きていないのだけど、この世にはタイムラインがあって、その種は今に作られ、今に花を咲かせ続けていることは覚えておきたいと思います。
そしてそれは自己への揺らぎない信頼につながるでしょう。これまでのすべての体験が私を護り、助け、育むためにそばにいてくれるのですから。
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