標高550mの山奥から2021年をおもう。
2021年も残り3ヶ月とちょっと。はーやーい!
なんていうのを飽きもせず毎年やっている気がする。きっとみんなそうだよね。
今年に入って、びっくりするくらい人生が大きく動いたので、ここで一度整理しておこう。ライフログとか、写真とか、記録とか、そういうことには全く興味がない。でも、今年に入ってからの人生劇場は、まさに第二章、いや、第三章のはじまりと言えるものだと思うのだ。
何から書けばいいんだろう。文章ってどう書くんだっけ。まずはそこからか・・・。
私は今36歳で、子どもが3人いる。4年前に離婚を経験し、怒涛の日々のなかで、自ら選択して生きていくことの喜びを感じながら楽しく日々を過ごしていた。
昨年、とても信頼している知り合いから、あなたは2021年の半ばには今とは全く違う人生を送っているよと言われた。
失礼ながらも、へぇー楽しみー!くらいに軽く捉えていたのだけど、・・・まさかのその通りになってしまった。
今年の初め頃、同じ県内の山奥に強烈に惹かれる村を見つけ、即移住を決意。仕事を辞め、子どもたちがOKサインを出してくれた翌日に転校の手続きをとり、アパートをさくっと引き払い、4月の子どもたちの入学・進級に合わせ4人でこの土地に越してきた。
標高550Mにそびえる山村、懐かしさを感じずにはいられない美しい街並み。平均年齢が60歳以上と過疎地ではあるものの、人々のあたたかさ、繋がり、ここには何でもあると思わせてくれる、あまりに豊かな異次元空間だ。そして歴史ある観光地でもある。
私は自分の直感を信じている。
なぜかわからないけど、そこだけは絶対的な自信があるのだ。
ふとそれがわいてきた時、それを選ばない選択肢は、わたしの中にはない。
この時もそうだった。
この土地に越してきて、ちょうど半年が経とうとしている。移住当初は、こんな素敵な土地に暮らせること、村の人々のあたたかさ、鳥の鳴き声で目が覚め、何とも言えない安心感のある夜の静けさの中で眠りにつける喜びを日々噛み締めていた。それはまるで、自分がこれまで好んで読んできたノスタルジックな小説の中に紛れ込んだかのような、少しだけ浮足の立つ日々だった。
幸いなことに、村の人はあたたかく受け入れてくださり、閉鎖的な住宅街で育った子どもたちの表情はみるみるうちに輝き始めた。今では村の人々に見守られながら、自然豊かな野山や美しい村の街並みを日々駆けずり回っている。これまで騒音や苦情の対象として受け取られていた彼らの元気な声は、ここではとても喜んでもらえた。そのことが母親として何よりも嬉しく、ありがたかった。
ここに移住を決め実現するにあたって、友人から一人の男性を紹介してもらった。その彼は数年前にこの土地に移住をしてきた若者で、村の人々から愛され、慕われ、大事にされている人物だった。彼を通じて空き家探しや村の人々との繋がりを持ち、彼が築き上げてきた信頼のおかげで、この土地で生活をスタートさせることができた。
そしてその彼と、恋に落ち、出逢って4ヶ月で結婚した。その1ヶ月後、妊娠が発覚し、今お腹に赤ちゃんがいる。
そう。今年に入って9ヶ月で、生活の拠点を山奥に移し、新しい仕事を始め、結婚し、新たな命をお腹に宿った。
子どもたちにとっては、新しい環境で学校生活をスタートさせ、生活は一変し、閉鎖的な日々とは打って変わってたくさんの人々と関わり、自分の感情を存分に出せるようになった。そしてお父さんになって欲しいと言っていた村のお兄さんがお父さんになり、甘えん坊の末っ子は来年お兄ちゃんになるのだ。
さらっと書いたけれど、本当にあっという間だった。そして決して全てが順調だった訳ではない。色んな葛藤や、煩わしさ、不安。こなしていくべき作業や考えることの多さ。新しく築き上げていく人々との関係性や子どもたちのこと。仕事のこと。学校のこと。この先のこと。決して全ての人に受け入れてもらえた訳じゃないし、不安がなかった訳じゃない。だって自分一人の人生ではない。幼いこども3人の人生を車に乗せて、遥々ここまでやってきたのだ。誰にも触れさせない私の覚悟がある。でも、私の考える覚悟は、一般的な責任とは少し違う。自分で選択したことの先にたとえ何が起きようと、抵抗せず、ただ受け入れていく。それが私の覚悟だ。だって自分が選択したことだから。失敗なんて言葉だけもので、そんなものないってこと、私は知っている。消えたくなるような苦しみでさえも、必要なことしか起こらない。だから起こることは全て、ただそのまま受け入れていく。
そしてこの瞬間から、今日も、明日も、1日1日を、自分で選んだ場所で生きてゆく。
そんなこんなで、もうすぐ9月が終わろうとしている。数年前まで、この季節が苦手だった。うるさかった蝉の鳴き声がいつの間にか消え、日が少しずつ短くなり、いつもと同じ時間の流れが、なんだか別の世界で起こっているような気持ちになる。夏の終わりのなんとも言えない寂しさに、どうしようもない孤独で押し潰されそうになっていた。
でも今は、この季節の儚さを、ただ美しいと感じることができる。過ぎ去ってゆく一日一日も、昨日とは違う愛おしさで味わうことができる。生きていたら色んなことが起こるけれど、泣いたっていいし、怒ってもいい。自分にわがままでいい。この季節のように、移りゆく今をただ味わって生きて行けたらいいなぁと思う。
ゆったりとした日曜。夕暮れの美しい小さな村より、今の想いをそっとここに残しておこう。
さ!ご飯のじゅんびにとりかかろう。