「必要がなくなる」から「やらなくなる」
自分が投稿したnoteが、初めて人から紹介されました。
noteを投稿し始めた頃は、今までに学んできた考え方のこととか現実と人の内面のこととか、学校ではまず触れないようなことが、自分が得た知識を通じて触れられればいいかなーというくらいでしたが、共感していただける方がいることに非常にありがたみを覚えます。
じゅにーさん、ありがとうございます!
ちなみに紹介をしてもらったのは、昨日のこの記事。
まだ見てない人は、どうぞ。
運動と摂取カロリーの関係性|もなりん @tomomontt #note https://note.com/tomomonttbb/n/n21070c4e344a
さて、じゅにーさんからは投稿の度にコメントをいただいているのですが、自分が投稿時点では気づかなかったり見落としていたりするものもあるなということを、改めて学ばせていただきました。
前回は摂取カロリーと運動の関係から、
「人は体を動かすものである」ということをお伝えしてきました。
それに対して、こんなコメントをいただきました。
「食べれているから、動く必要がない。」
このコメントをみたとき、自分が見ていない面からの面白い発想を得られたなと思いました。
別に動くことをしなくても食べられることができているなら、わざわざ体を動かす必要がない、と。
確かに今の日本を見ていると、至るところで食べ物が目に入りますし、必要最低限の動きで十分(最悪一歩も動かなくてもスマホがあれば食べ物が勝手にくる)な状態なので、自分から獲物をとりにいくことなんかはまずありませんね。
それでふと、運動学で得たことから思い当たる言葉が出てきました。
「不使用の学習」
これは筋肉などを使わなくなると、体の中では「使わなくても大丈夫」と認識し、段々筋肉量が減ってきてしまうことを指します。
よく足を骨折した人がギブスをはめて足をつけずに何日間かおいた後にとってみると、足が細くなってしまっているというようなことです。
実は人の体というのはよくできていて、「よく使うこと」というのを何回もやり、「使わなくなるところ」というのはなるべくやらないようになっているのです。
これは筋肉に限らず、他の場面でも言えることではないかと自分は思っています。
勉強とかそうですね。
結構「勉強が苦手」という人がいます。
それを聞いてみると、「できないから苦手」という人が大半なのではないでしょうか。
それで「じゃあ勉強すれば?」というと、あまりやってこないことであるから、やらない。
やらないから、できない。
するとできない状態であっても生きていけるから、やらなくてもいいと体は覚える。
そして勉強をやらなくなる。
うん、勉強になりますね(笑笑)。
となると、体を動かさなくなるというのは、
「別に動くことをしなくても生きていけるし、動かさなくなることを学習するから、余計に動かさなくなる」
ということにもなるのではないかと思われます。
このことは、他のことにも通じることですので、もし「苦手」ということがあるのなら、もしかしたらただ単に「今までそれをする必要」がなかっただけなのかもしれません。
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