価値はどこまで交換できるか?
「お金って、なんであんなに人をおかしくしてしまうのでしょうね。」
書いているときは、おはようございます。
もなりんです。
冒頭から突っ込みました。今回は、普段と違う意味で切実かもしれません。
「お金」が生活の命をつなげてしまっているこの世の中。
「食べ物」や「水」よりも大切に感じてしまう人がいるかもしれません。
何でもかんでも、「お金」で換算してしまう。
それは、人の命すらも。
仕事という名前の「労働」と称し、毎日を生きるためにお金をせっせと工面する毎日な人が大半。
本当に、これでいいのだろうか。
そして定年というものがあり、定年を過ぎたら満額の退職金がでる。
その頃にはすでに、やりたいと思っていたことを何回も止めてしまい、もはや体力も気力もない人が大半に。
体力が加齢も加わり、より低下してしまう。
そこに病気やら定期検診やらがあり、今度は医療費をもっていかれる。
これもまた、お金。
一体、何故にここまで生活と結び付いてしまったのものか。
歴史を振り替えると、お金とは「ただの交換手段」でしかないもの。
金本位制では、金が一番価値のあるものとして交換し、持っている人は金をただ渡すのでは思いから手形として紙幣を渡し、それを金の証明としました。
その後持っている金以上に紙幣を発行し始めたことから、このような世界になってしまった。
で、お金を得る手段は何か。
会社員であれば時間、いや全ての人にとっても厳密には「時間」が対価なのかもしれない。
時間と何か別のもの、それこそスキルなりでその人がレアなものでよいものであると感じるなら、人はより多くのお金を渡すことになる。
…ここまで述べてきて、本当に言いたいこと。
それは、
…。
「働かなくなると、生きていけないなというのを、今月切実に感じました!」
別に色々やってもいいが、それ以上に勉強のために使ったもの、それこそこのnoteのネタの一部にもなってます。
勉強のためのセミナーとかの代金がまだ期間ずっと先にまで残ってしまっているというところです。
いやはや、怖い話である。
完全な自業自得。
できるなら、早めに一掃したいくらいです。