ものごとは「交換」で成り立っている
「与えられたモノには須くそれに見合うだけの代償、対価が必要なのよ 与えすぎてもいけない 奪いすぎてもいけない 過不足なく 対等に均等に、でないとキズがつく」(xxxHoLicより)
書いているときは、おはようございます。
もなりんです。
今まで勉強やら学校やら仕事やらと書いていましたが、はてさて困ったことが分かりました。
「今までの学校の仕組みでは、与えられたものしかやってはいけない、もしくは問題が既に与えられて答えがあることしかほとんどやれてない」
ということに。
そうすると、会社とかで何かをお願いされたときに、「◯◯をやってほしい」と言われたら、それしかできない人ばかりになって、自分から動き出して何かをしようとする人が少なくなっているのでは?と。
で。そうすると。
今度仕事をしたとして、その労働の対価として給与をもらうわけです。
そして人によっては「これでは生活ができない」と抗議することになります。
かといって、抗議を受けた側としては「それくらいの能力しかなく、それくらいの対価でしか与えられない。いやそもそもそういう取り決めでしょ」ということになる。
特に報酬が国から定められているもの(医療とか)なんかは、そういう価値だと換算してやっているとしか言えないですね。
もちろん、お金だけが対価として受けとるものではないでしょう。
そして、その価値というのは人によって変わるもの。
さらにいうと、明文化されているかに関わらず、すべてのものごとは交換で成り立っている。
その人にはどれほど価値があると感じていても、別の人にはそうでもないと思うこともあるし、逆もしかり。
もし、いい生活をしたいのであれば、それ相応のことをしなければならない。
だとしたら、「与えられたもの」しかできない、やらないのではなく、そこから何が加えられるのかということを考える、なぜやるのかということを理解する。
結局、それでしかない。
そういうことは、学校では教えてくれないし、社会人になったとしてもなかなか教わることはない。
いかに気づくかということしかない。
価値をそれぞれ交換する。
その感覚は今までになかった。
もし、自分が「もらいすぎ、与えすぎ、もらわなすぎ、与えなさすぎ」というようなことがあるのなら、それがどこからきているのかを探ってみること。
(今もなお、どこまでできているかは把握しきれていませんが。ただ少なくとも、その代償となりうるものは大分あるような感覚ですが。)