①根暗な日本人留学生in上海
どうも体調不良から仕事を辞めて筋トレと楽しい妄想で元気回復中なおばさんです。
私は地元北海道の大学受験に失敗し、2002年に(昔々の話)上海の大学に進学しました。予備校にもいかずアルバイトにはまってしまったもんだから国内での受験を早々に諦めて留学費用作りに邁進!というのが事実。
もともと中国の雑貨が好きだったという理由だけで…
昭和56年生まれのおばさん大中という雑貨屋さんが大好きだったのさ。
知ってる方いないかな?宇宙百貨とか…。
紙粘土の首とれちゃうパンダとか🐼カラフルで謎のお猿人形とか、インク出ない毛沢東の顔ついたペンとか売ってたのYO。まーいいか
せっかく海外の大学に進学したのに喋らず、手が腱鞘炎になるほど中国語を書き、テープの中国語を暗記する、現地の中国の方とも交流せずに同級生とも最低限の付き合いで何人かの日本人で暮らすという最悪のコジラセ留学時代を送ったのでそうはなるなよを書きたいと思います。それ留学の意味ないじゃんーなお話。でもその後悔から熱い中国への愛を持って心で燃やしてはいる…変なおばさん。ま!楽しんだ方が良いわさね。
暗かった理由
単純に辛い事が留学直前であったのであった…。父が急逝したのだぁ
毎日一緒に生活していた父が大好きな釣りに行ったまま帰って来なかったのである。当時49歳働き盛りのおっさんでした。
脱ぎ捨てたパジャマが置いてあるのに突然死んだ。辛いとか悲しいとかじゃなく良くわからないパニックの状態であったのだ。
留学が決まっていて3/24に父が亡くなり4月上旬出国…。厳密に言えばそれどころの精神状態でないので留学したくなかったがやめる術がなかった。
学校に電話する?(当時の語学力通じない)仲介の業者を利用していたが、なんか適当だったので行くしかねーべさ。の状態で中国に入国したのだ。
父の急死で呆然と全てが空っぽになった大好きなお母ちゃん、父が亡くなったショックも強かったが大好きな母を置いてきぼりにした罪悪感が当時の私に重くのしかかり49日の法要もせずにお葬式と色んな手続きだけ頑張ってして(当時の母は本当に空っぽで動けない状態)幸い姉が居てくれたが姉も茫然自失、魂はどこなんじゃい!!だったので…
私が何とかしなくてはと思っていたのだが最低限の手続きを終えたら自分の留学の準備でバタバタして母と姉を置き去りにしてしまった気持ちでいたのです。(一緒に居てもいっしょに魂抜けていたかも?ですが)
今思い返せば大学に進学して良かったのだが当時の私は罪悪感にさいなまれていました。
父の死も今思えば最高な死に方だな…。ズルイぜーと思うですがですがね。
父は軽い糖尿病をもっていたくらいで酒飲み(私も)ではあるが急死するような病状になく、大好きな釣りをして(3月だったので北海道の最後の雪が降っている日でした)心筋梗塞を起こし海辺の岩場で丸まって亡くなっていたそうです。父との再会は釣り場近くの警察署の霊安室でした。
アルバイト先に電話がきて母がおかしな事言っててタクシーで帰って来なさいと言われて、帰宅すると母は居なく、親戚のおじさんが居て父の元に連れて行ってくれるとの事。
何か父に起きて、病院にいると思い現地に駆け付けた私は何故か違う場所に連れて行かれ、警察署の方にご遺族様ですか?と聞かれ…。立てなくなった記憶が、おじさんは知らんかったんかーと支えてくれたな…確か
(おじさん有難う)
父の死を家族で一番後に知った事により、後出しジャンケンで負けた?ので泣けず葬儀の段取り、父の会社への連絡、何人くらい収容できる会場が必要なの?戒名(上中下どれ)、弁当何個発注?(上中下?)うちの宗派はなんじゃ?バーちゃん死んだときの写真ドコドコ?父のイエイ?遺影…。
ハゲだったので帽子かぶったのしかない…あらあら葬儀費用はぁ?
たまたま私が留学資金を作っていたのでその費用を下ろしに行くのだが、大金ってまとめてATM引き出せん…OMG!あらあらあらテンテコマイ…
お母ちゃんが居ない…喪服着てどこかに消えた?(あトイレにいた…)
大病をして長く苦しんで亡くなるより呑気に好きな事して旅立った。
しかも海に落下し流されるといった事ではなかったので莫大な捜索費用がかかるといった事もありませんでした。
本人はまだやりたい事、食べたい物、見たい物沢山あったのではなかろうかとは思います。覚悟なく人生の幕を引いた事でしょう。
家族を失うってこんなに辛く大きい事なんだなといまでも胸が苦しくなります。😢なので家族に出来る事は後悔なきようしておきたいですね。
父は新聞社務めの広告マンでした。警察官の息子で子供の頃帯広にいたのでスピードスケートをしており、国体やオリンピックの候補にも挙がる有名選手で、札幌の高校卒業後スポーツ推薦で明治大学に進学、そうそう大学入学前に学生運動も少ししていたとかいないとか?
大学進学が取り消しになるかもだったと言っていたな…そう明大!
先日お亡くなりになった桐島聡容疑者(父より1歳下の指名手配犯)知り合いではなくとも、父がもし生きていたら彼の死と送検のニュースに驚いただろうなー
なんて違う話はここまで…脱線スミマセン
貝のように心も体も部屋に
上海の大学に9月から入学が決まっており、事前の短期語学スクールという形で中国は上海の下の方にある浙江省というめちゃくちゃ素敵な西湖があったり美しい所で、楽しめよおまえ!と過去の自分にぶん殴りたいっすが…。
浙江大学は中国の重点大学の一つでキャンパスも大きく校区外に出るのに30分くらい歩く記憶、留学生寮も綺麗で立派でした。
なんせ優秀な学生が集まっているのだから、言葉が通じなくとも(私の発音マジ最悪)そんな若者と交流するだけで最高だったはずで、部屋に籠っていたなんてなんてもったいない。
暗い留学生、異文化で固まりつつ実家のおかんの心配ばーーーっかりして楽しめなかったの、その後4年間上海で過ごすの訳ですが暗い気持ちのスタートはやはり留学生として良くない影響が続いたのであった。
語学のスタートを貝になってしまった為、発音に自信ない、聞く書くだけの喋れないコンプレックスにさいなまれたのだ。
今思えば単純に中国語は発音が物凄く難しいのだ。恥じる事なく通じなくともチャレンジして楽しめば良かったものを…。
とか後悔しておいて、中国の市場散歩や食べ物、お酒、現地人と交流がないかと言えば???
友達は居なかったが、見知らぬおじさんと飲んだり( ´艸`)
何言ってるかわからないおじいちゃんと株式電光板の見方のレクチャーうけたり…。意外とレアな体験はしていたな。
おじいちゃんだと交流できる不思議な若者だったのさ当時…今もか?。
同世代の交流が苦手なだけだった?かもデス
同世代の友人…そういえばアメリカの黒人のボーイフレンドは出来てお互い片言の中国語(私英語出来ないポンコツ)でよくお茶したな…
笑うツボが未知過ぎて文化の違いに驚いた記憶…モーガン思い出した!
数年後ママから電話貰った…
(その話はまた今度)
4年半も中国に居たので覚えてる事だけでもいっぱいあって大した話じゃないですが、何話か書いてみたいので留学はたのしめのお話また読んで下さると嬉しいです。
あらら、また長くなっちゃった。
ごめんあそばせ。
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