「教える」にも編集視点が必要なのでは
言いたいことがたくさんある時ほど、「言わないことを決める」。
その日の最後に、覚えていてほしいたった一つを決める。
それは、教えるときも同じだと思ったのだ。
教えるプロの方たちからすると当たり前のことかもしれないけれど、私はよく作文添削で「一体どこまで赤を入れたらいいんだろう?」と考え込んでしまうことがある。
改善点は色々あって、どれもが知っておいて損はないはずだけれど、テキストでそれを全部伝えようとすると、原稿用紙が真っ赤になってしまう。
これもあれも、それも伝えるには・・・と考え込むことを何回か繰り返すうちに、やっとわかったのは、
作文を教えるこちら側にも編集視点が必要だ、
ということだった。
一つの作文をより良くするために、3つも4つも要点を伝える必要はない。
その子の文体、その子の視点(強み)を見つけられたら、改善すべき点はたった一つに絞れる。
つまり、「どう」よりよくするかが。
いつも物語を書いて送ってくれる女の子が、それを気づかせてくれたとも思う。
文章表現も素晴らしく、発想もとんでもなく面白い。小学生とは思えない文章力だ。
けれど、作品として見たときに、例えば「もっとつながりをわかりやすく」とか「主人公の心情描写が足りない」とか、色々改善点はたくさん見えもする。
でも、そういうものを、全部伝える必要はない。集中すべきは、むしろ、
彼女に「何を」伝えればその元々の文体が輝くのか。
そういう視点を持って添削に当たるようになって、何でもかんでも書き込んで、親切に指導したつもりになっていた以前の自分を反省した。
例えば、子どもによってはひらがなが間違っていたり、原稿用紙の使い方がまだよくわかっていない場合がある。あるいは、文章自体には問題はないが、論理(考えの道筋)が作文として表現されてない場合もある。むしろ、論理構成すらもうまくいっているが、表現力が足りていない、という場合だってある。
一番大事なことは、その子というよりも、教える私の側の視点。
つまり、「私が」どこにフォーカスするかは、「私が」決めるべきだということだったのだ。
もしかしたら、ひらがなの間違いなどより、その子の「視点」をもっと引き伸ばす必要があったかもしれない。
論理構成が面白いなら、さらに、説得力を高める表現ができるかもしれない。
物語をかいてくれる彼女には、ハイファンタジーの書き手としての才能を感じているが、少々物語の進め方に飛躍がある時がある(想像力が豊かすぎて)。
でもだからこそ、私は、彼女にもっと想像力を膨らませて!と伝えることにした。
その方が、彼女の場合は圧倒的に面白い作品を書いてくるからだ。
いいところを伸ばしながら、時にはショベルカーで大胆に文体を掘り起こしていく感じ。そんなふうに、私自身も子どもたちの変化を楽しんでいる。
言いたいことがたくさんある時ほど、「言わないことを決める」。
その子が、私との時間のあと、持って帰ってもらいたいたった一つのこと。
それができるようになったら、教えるこちら側の手応えもまた、以前とは違う大きさで感じられるようになった。