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無言の中学生たちと、翻訳できない日本語
定期的に会う中学生姉妹たち。言葉はほとんど出てこないし、文章といっても単語とか箇条書き程度にしかまとまらないけれど、
ぽつぽつと出てくる言葉の一つ一つが、なんだかあたたかく、やさしい。ものごとをそのまま、優しく、穏やかに、あるがままに受け止めていて、そこには批判とか嫉妬とか憎悪とかが一切ない。
中学生時代って、スラスラかけたり話せたりしないってことに逆に偉大なる価値があるような気がしたのは職務放棄であろうか。
結局、私は何をか提供できたのであろうかと、不思議な満たされ感のままnoteを開くこと、こちらの記事に出会った。
「日本語の美しさは、訳せない表現にある」ととく、日伊通訳者のマッシさん。
「木漏れ日」を事例に、翻訳できない日本語の魅力について語ってくれている。確かに、正確に訳してしまうことはできるだろう。私が子どもに意味を伝えるとしたら、「木々の枝や葉っぱの間から、太陽の光がもれている状態のことだよ。葉っぱや枝が揺れるので、ちらちら光ってまぶしいよね」などと教えるのだろうか。
だけど、言葉の意味の正確さに囚われることで、そこからこぼれ落ちるものも無数にある。
「木漏れ日」という言葉を使いたくなった、その人が感じた光の温度や、風による枝葉のゆらぎ、また心情。日の光、ではなく、木漏れ日でなくてはならなかった理由。
同じものを見ても、同じようには感じない人間が使う言葉である限り、そういうものが、万国共通グッズのような翻訳の意味の中に含まれるはずがない。
マッシさんの記事を読んでいて心からうなづいたのは、翻訳できない表現の中に<自然>を見いだしていらっしゃることだ。
自然って、つまり、翻訳できない生命の仕組みでもあるのだろうと。生きていることの謎、生かされていることの不思議。人が息づいているこの世界に、言葉があるのはなぜか。
昨日ふと目にした、コロナウィルスについて語る福岡伸一さんの小さな記事とのつながりも感じる。
・・・正しくおそれる。「おそれ」っていうのは、恐怖のおそれじゃなくて、畏敬の念の畏っていう字が適切じゃないかと思うんですが、まさにセンス・オブ・ワンダーという意味の畏れ。正しく恐れるというよりは、自然に対する畏敬を持つことだと思う
(渋カツナビvol.04 令和3年3月15日発行 )
正しく畏れる、翻訳できない日本語の世界。そこには、神々への信仰というよりも、自然に生かされ、生きている、その原理を奥深いところで知っている、私たちの自然に対する想いが宿っている気がする。
もしかしたら、そういう神々しいものを、今日の女子中学生の「無言」の中にも感じたのかもしれないなあと思うのは、飛躍しすぎだろうか。