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「動物を飼う」ってどういうことなんだろう
動物園の飼育員さんを、ここ数年取材させてもらっている。
アジアゾウを二十四年あまり飼育し、その最後を見送った人のお話は、動物を飼ったことがない私にとっても衝撃的で、驚きに満ちていた。これは本にしなくては、という思いで一人で七転八倒している。To be continued....
とにかく、ここ数年感じることは
飼育員という仕事の凄味、
これに尽きる。
私はこの数年、資料やお話や現場の取材を通して、飼育員という仕事をずっと擬似体験し続けている感じになっていて、ローカルニュース的に流れてくる「動物の赤ちゃんこんにちは♪」的なのは、もう「かわいいね♪」といいながら見ることができない。
人が動物を飼うということを、ここまで深く考えたこともなかった。
飼育員ともなれば、犬や猫などほとんど改良・家畜化された動物とはわけが違う。
外国生まれの猛獣も、熱帯に暮らす爬虫類も、彼らの担当だ。私からすると「得体のしれない」動物たちの命を、地域の財産として、預かっているのだ。
これって、一体、どういうことなんだろう・・・。
詳しくは、いずれ本になるであろうこの本を手にとっていただくとして、
私自身は、家に犬がいた記憶はあるが、かわいがった経験がない。きっと家族の誰かが飼いたいといい、散歩や餌は彼らの担当で、私は遠くからそれをみていただけ。
今のように、お洋服やフンの始末など、マナーの一つでもなんでもなかった時代、きっとジョン(あ、犬の名前です)は、「この人たちに飼われて幸せだった・・・」というような気持ちには一度もならないまま天寿を全うしたと思う。
私には、動物たちと心を通わせたという経験が、全くない。
そんな私が、この本を書いていいのか?と思わなくはないが、書くたびに、読み直すたびに、これは伝えなくてはいけない、という想いにかられる。
(苦悩のあと・・・汗)
動物を飼うということは、人の都合に合わせて動物と暮らす、使う、役立たせる、ということでもある。
そして、動物たちは私たちに、惜しみなく、無垢な心で力を貸してくれるのだ。
国によっては労働だったり、人によっては生活の補助だったり、あるいは癒しだったり。
動物たちは、言葉を使えないぶん、言葉を超えたつながりを私たちにくれるのだよね。
一方、動物園というのは、長らく「見せる」だけの場所だった歴史がある。動物を見て、ただ楽しむ場所。以上。というその位置づけから脱却して、今多くの動物園で、それぞれの取り組みや運営が行われている。
「動物をただ飼育して、見せるだけの動物園は、もうあってはならない」
これは、私が取材させてもらっている飼育員さんの言葉。なんだか、この言葉に突き動かされているような、気もするんだ。
飼育員という仕事は、つくづく「動物が好き」だけでは成り立たない仕事だ。施設を運営する上では、教育的意義もあれば、広告的意義もあれば、研究調査的意義もある。
一つの役割で、担っているものの大きさは、計り知れない。
その途方もない枠組みのなかで、苦悩してきた飼育員さんって、多いのだろうなと思う。動物を愛するがゆえに、沈黙せざるを得ないことだって、たくさんたくさん、あるんだろうなと思う。
まあ、それは私の勝手な想像ではあるけれど、「人が動物を飼う」ってことの意味が、少なくとも私がジョンと一つも思い出を作れなかったあの頃とは、もうめっちゃくちゃに変化していることは火を見るよりも明らか。
そして動物園は、率先して、そのたゆまぬ努力をし続けている場所だ。
こんな私がいうのもなんだけれど、人と動物が対等にこころを通わせたところにある、「飼う」。その一つの形を提示したい、というわけで、本づくりは続きます。