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ことばの標本(10)_「無事に生きていくことができました」
「今日まで無事に私は生きていくことができました。お母さんのおかげです。」
(小学校の卒業式にもらった娘からの手紙)
母の日です。
私の人生で、娘に会えたことは本当にラッキーなことで、これ以上の幸せを臨んでも意味がないと思うくらい、自分が授かった命に、本当に感謝と尊敬の気持ちでいっぱいです。
私が幸せを享受できているのは、紛れもなく両親が存在したからで、そう考えると両親だけではなく、連綿と続く命の連鎖があったからで、
世の中の全ての命を繋いできた母さんに、感謝の思いを捧げます。
そんな日に、思い立って本棚の整理をしていたら、娘が小学校を卒業した3月にもらった手紙が出てきました。
担任の先生の指導のもと、クラスのみんなで書いた手紙らしく、和紙のような手触りの紙に、縦書きで6年間の感謝の気持ちが綴られています。
ちょっと仰々しい、背伸びしたような言葉が並んでいて、「嫁入り前か」と突っ込みたくなる文体ではあるのですが、こうやって感謝の気持ちを改めて述べられると、「何もしてないし、できてないしなあ」と、日頃の怠惰な自分が申し訳なくなります。
この手紙をもらって読んだ日、思わず笑ってしまった一行が、冒頭の言葉です。
うちの娘は、日本語の使い方を微妙に間違ってくる時があるのですが(幼少期に中国語の方が達者だった影響もあるのでしょうか)、「ちょ、ちょっと、大袈裟じゃない?」と笑ってしまいました。
多分、彼女なりに一生懸命考え、一番気持ちにふさわしい言葉を選んだらこうなったんだと思います。
が、小6の手紙に現れる「無事」の新鮮な違和感が、私に「無事とはなんぞや?」を考えさせることとなり、いろんな意味で忘れられない手紙になりました。
無事、というのは、何事もない、ということで、普段通り、事故なく、健康なさまなどを意味する言葉です。
日々の「無事」を意識するには、日常には「おおごとも現れる」、その可能性も意識されていることが、前提にあるような気がしますね。たいてい、何かショッキングな出来事があってようやく人は学ぶものですし。
私が、娘(当時12歳)の言葉選びに違和感を感じたとしたら、「いやいや、あなた今までの人生でそんな大変な目にあってないじゃないですか」だったかもしれません。
毎日、飛んだり跳ねたり、怒ったり笑ったり、本当に楽しそうで、一生懸命生きてるじゃないですか、と。
でも、ふと、思ったんですね。
毎日が本当に満たされて、普段と変わりなく生きることを、変化のない毎日の連続の中で認識することの方が、実は難しい、ということを。
いや、彼女なりに、毎日が冒険で、波乱ばかりで、生きるのって大変、って感じているから出てきた言葉なかもしれない。
「毎日、普通でいいんよ」
っていう娘にとったら、人生は冒険で満たされていて、すでに大変なことで、生きているだけですごい!と思っているということなのかもしれない。
本人は、「え?なんかおかしい?」ってぽかんとしてるばかりですが、
何事もない今に感謝して生きていくことを、自然体でできている人なのかな?と思ったら、私も、私の中にあった
「無事に生きる」
の定義を更新したいなと思ったわけです。