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ことばの標本(3)_「角のないまるい大きな自然石」
角のないまるい大きな自然石、李徳全さんは、ちょうど、そんな感じのぴったりくる人柄でした。
(平塚らいてう手記「李徳全さんをお迎えして」『日中戦後外交秘話』加藤徹、林振江著/新潮新書)
普段、あんまり難しい本は読まないのですが、最近、読み終えたこの本。
それは、まだ戦争の傷痕も生々しい、1954年。
1972年の日中国交正常化よりも前、周恩来と田中角栄が握手するよりも前、ランラン、カンカンで盛り上がるよりもずっと前に、
その布石となった歴史的な<外交>があったことを掘り起こす、ちょっとびっくりな新書だ。
この外交を担ったのが、中国の政府要人であり、中国紅十字会(赤十字)会長であり、クリスチャンでもある李徳全(りとくぜん)という女性である。
李徳全の来日に、当時、日本中がわいたそうだ。マリリン・モンローを超える勢いで。
なぜか?
1000名を超える「戦犯名簿」を携えて降り立ったからだ。
終戦から10年が立とうという頃、いまだ引き揚げがかなわない日本人が何万人といた。その中でも「戦犯」とされた軍人らは、中国の措置に身を委ねられていたのである。
留守家族は、家族の安否を知る手がかりを、再び家族に会える希望を、李女史の手元にある名簿にたくしていたのだ。
李徳全という人は、この任務を、政治的な外交とは少し切り離して(完全にではないけれど、あくまでも人道主義にのっとって)、
「彼らをお返しします」
と、宣言するために日本に降り立ったのであった・・・。
***
なんということ・・・全然、知らなかった。
彼女が日本に降り立たなければ、ランランもカンカンも田中角栄もなかったかもしれない。
そして知った今は、もしかして私が今、瀋陽(元・満洲国)出身の夫と日中国際結婚できているのは、全て李徳全さんのおかげなんじゃないかと思えてならない。
歴史的な事実や、詳しい経緯はぜひ、本書を読んで確認していただきたい(読みやすいです)ですが、
東西分断も激しいあの時代、親中派や台湾との対立など、命を狙われる危険がいくつもあったそうで、
そのような緊迫する状況のなか、会合や面会こなしながら任務を遂行する李徳全と3回接見したという平塚らいてうは、彼女のことをこの言葉で評したのだそうだ。
角のない大きなまるい自然石。
読み始めてすぐ、李徳全とは、一体どのような人物だったんだろう、と気になっていた。もはや私の中では人生の恩人みたいな立ち位置にいるので、恩人の詳細はぜひ知りたい。
女性で、政府要人で、人道主義者で・・・
彼女がどんなに優しくて柔和な人物であったとしても、当時の状況を考えると、決して生半可な「優しさ」や「気遣い」でこの任務を遂行することはできなかっただろう。
やわらかさの奥にある、揺るぎない自分の信念や理念。どっしりとした、人を引きつける存在感。
そう、李徳全が「角のとれた大きなまるい自然石」でなければ、当時、戦犯名簿を持って日本に降り立つことなどできなかった。
日本の女性解放運動を引っ張った平塚らいてうの、李女史に会った感動と畏怖の念がそのまま詰まったような、彼女を描写するこの言葉。
この表現に、李先生の陰影が立ち上ってくるような気がしたし、それでなんだかほっとしたような気がした。
(今日近所の海で拾った石・・・李徳全はこの数百倍の大きく、表面ももっと滑らかだろうな・・・)
この新書にも、李徳全の顔写真はあるし、ネット検索すれば動画も出てくるのだけれど、
柔和で、落ち着いた雰囲気は、なるほど確かに「角のとれた大きなまるい自然石」で、それは全てを包む母のようでもあり、威厳をもった父のようでもある、両性具有な存在感なのであった。
引き続き、恩人のことは知りたいので、こちらの本も読んでみようと思っている。