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自分にどんな体験をさせたいのか、自分に問うて
このところ、受験を控えた中高生から、作文をみて欲しいとの問い合わせが増えている。
ほとんど親戚ですが(笑)。
親戚以外の方からももちろん、お問い合わせはいつでもどうぞ↓
で、そのいくつかを読ませてもらったら、これがまあ、初めて読んだけれど文章が非常に整っている!
基本的に書く力があるし、伝えたいことがちゃんと日本語になって伝えられている。必要だと思われる事項もそれなりに抑えられていて、わー案外かけるんだね、と思いながら最終行にたどり着いた時、
1行も心に残っていなかった。
ああ、きっと学校で「こういうふうに書け」と言われたのだろうな。志望理由書や自己アピール書のテンプレートかなんか使って書いたんだろうな。
1段落目はこう、2段落目はこう、と見事に型を踏襲された「どこかでみたことのある作文」は、
日本語がすらすらと読める以上の価値がないように感じられた。
1行も心に残らないって、別に、私が書いてもB子さんが書いても、誰が書いても同じですね。
中学生や高校生になって、いきなり「進路」を迫られた時、明確にやりたいことがわかっている子供たちならいいけれど、そうでないなら「周りに合わせる」しかできないですよね。
型があることは決して否定されることではないけれど、それに頼ってまで行こうとしているその先に、何があるのかなと思ってしまうのは私だけでしょうか。
もちろん、たまたま受かった先、どこでもいいから進んだ先で、出会うもの、見つかることってたくさんあるから、
結局、本人がそれで満足なのであれば、それでいいのだと私も思うようにしている。
でも、もし私のところに作文の問い合わせをしてこられる方には、しつこくしぶとく「自分に嘘をつかないで」と10回は言わせていただきます。
その文章の中に、一言も自分の内側からでた言葉がないのなら、書いても受かっても、その先にあるのは今と大して変わらない自分。この先もずっと続いていく、想定のつく道を歩く自分の、同じような毎日です。
自分に嘘をつかないで書くと、リスクもあると思いす。型からはみ出るし、「同じ」じゃないし「目立つし」ね。
その上、それで本当に欲しい結果が得られるかどうかはわからない。
それでも!ですね。
自分に嘘をつかない。
嘘をつかないってのは、「本当は滑り止めで受験しています」という気持ちを正直に曝け出せってことじゃないですよ。
1ミリでも、自分の興味のあること。1グラムでも、挑戦してみたいこと。仕方なく受ける大学でも、お試し受験でも、わずかでも、自分の中にある興味や関心、やってみたいことの火種を、見逃さないってことです。
型に囚われて、自分の中にちょびっとでも動くポイント、それを完全無視しない。ちいさな振動でも、自分は自分にどんな体験をさせてやりたいか? と、主体的に自分に問うていくことです。
進学したい先に、何があるかなんて、行ってみないとわからないです。体験しないと本当に良かったかなんてわからない。
だったら、今、全てを自分を起点に、考える。自分の責任を、全てにおいて取り戻す。
それによって得られた結果に、誰が文句をいいますか? 例え親や先生や周りの大人が、やいのやいのと「だから言っただろう」と連呼してきても、自分はそんな自分に文句を言いたいですか?
自分に嘘をつかないで書いた作文で得られるのは、合否とか就職とか以上に、何があってもどんなときでも 揺るぎない、自分への信頼を養ってくれると私は思いますよ。