読書記録・2010/07/05「日本人辺境論」を読んで

内田樹著、「日本人辺境論」を読んで
2010年7月5日
私が今希求していることは、いい社会とはどんなものなのかということである。日本をどんなふうにいい社会にしていきたいのか、目標を見いだすためには、まず日本を知る必要がある。文化や歴史的背景、日本社会の仕組みなどがそうだ。
今回の著書からは、いい社会のあり方を探求するための日本人の傾向や性格といったところの補強となる知識を得ることができた。
 著者は日本人は“辺境人”であると主張する。他国があっての自国であり、周りとの比較によってしか自国を語れない。そしていつも日本は発動元にはなれず、いつも一歩遅れ辺境人として振る舞うというのである。虎の威を借る狐のように、自国の意見をもたず、他国の意見を借りてくる。借り物の意見なので自説を形成するに至った経緯を語ることができない。
著者はこのように日本を一方では批判しているが、日本の辺境性は一種の能力であり、非常に自然なのだがわざとそう振る舞っている節がある。著者によれば、これは辺境人としての長い歴史の中で培ってきた、日本に特化した学習能力であるという。師弟関係のように、師について学ぶというスタイルが最も効率がいいと日本人はどこかで信じているのだという。
 著者はこの能力を辺境人がその地政学的地位から開発せざるを得なかった“学ぶ力”であり、私たち日本人は学ぶことについて世界でもっとも効率のいい装置を開発した国民であると主張する。この著者の最大の主張について私は同意する。学びと言う言葉は大和言葉の“まねび”から来ていると言うことを聞いたことがある。たくさんの師と言える人たちから学び、よくかみ砕き、自分の意見を生成することが学習のスタイルだ。そしてさらに、他者の意見を聞きいれ、いいものとして吸収する能力に長けているとも言えるのではないだろうか。これも著者の言うことと同軸にあると思う。
 効率のいい学習装置という点で、この能力はもっと伸ばしていくべきだと思う。しかしながら、虎の威を借る狐のふるまいばかりではなく、日本はこうである、と他国に主張できるようにならなければならない。辺境人としての日本独自の学習装置をうまく使い、師を超えることで、日本は、そして自分は何者であるのかはっきりと主張できるようになることが大切だ。
田畑智美

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