本屋を歩くと、知らない「自分」に出逢えたりして
「人生を通して通っている場所は?」と聞かれたら、学校や会社、とかではなくて、「本屋」なんじゃないか、ってたまに思ったりする。
「何がなくとも」まず本屋。「何となく」フラフラと、「いつもと同じ」でもいいし、「いつもと違う」を求めたくなったりとか。落ち込んだ気持ちや、どこへやっていいのか分からない好奇心みたいなもの。
そういうことを感じた時、別にほしいものがなくても。いや、ほしいものがないからこそ、本屋には寄ってしまう。
今日も、そうだった。
時折立ち寄る、「大きめの本屋」さん。
大きめの本屋、というのは、そうだな、店内をゆったりと見て回ったら、「あれ? 小一時間ほどは経っているし、けれど全然一周もできてないじゃないか」と感じるくらいの広さとしよう。
「何かを探している」わけでも、こだわりの店主の世界観や、ひとつのテーマを深く掘り下げたいわけでもない。そんな時に立ち寄るのは、いつだって「何とはなしに寄る街の本屋」で。
目に入る本のタイトルは、占いや友人への相談よりも、ときに如実に私のコンディションを表す。と感じて久しい。
たとえば、旅に出たいときは、「自由に生きる」というカテゴリの本に。「新しい世界を知りたい」ときは、今まで一度も目を止めたことのないような、化学や数学の本だったりと。
今日は、20冊くらいの雑誌や本を手にとって、やっぱり小一時間ほどをかけてゆったりと中身を見たんだけれど(椅子に腰掛けて、読んでもいい本屋だったのだ)。
昔、会社で働き始めたばかりの頃だったかな、手にとったことがあった「As a Man Thinketh(邦題は「原因と結果の法則」)』という本の、新訳版。今日は、それに、手が伸びて。
大きな目標に向かって生きるという重荷にまだ準備ができていない人は、どんなささいで無意味に見える仕事であっても、完璧にそれを成しとげることに考えを集中してみるといい。このようにすることによってのみ、考えをまとめ、気持ちを集中させることができるようになり、決断力がつちかわれる。やがて、達成できないものなどなくなってしまう
『As a Man Thinketh(※人は考えたとおりの人間になる、に邦題は変わっていた)』より
そういえば、『心に美しい庭をつくりなさい」という本が好きだったのだけれど、それに共通するところもあるな、とか。
ええと、なんの話。「きっと私は今、じっくりしゃがんで、準備をする日々なんだろうな」と。
「何がしたいんだろう」とか「ときめきがわからない」とか。そういう風に思ったとき、ちょっぴりアンテナを張りながら、本屋を歩いたりするのは、どうかしら。
きっとそのとき目に入ってくる「ことばたち」は、次に私たちが無意識のうちにでも、求めているものかもしれないし。本には、どこか人を惹きつける「力」があると想っている、から。秋から冬に変わるとある日の、日記。