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ただただ対話を重ねるということ


「対話は手段ではない。

それ自体が目的である。

治癒は副産物としてやってくる。」


『オープンダイアローグとは何か』(斎藤環=著+訳、医学書院=刊)より抜粋

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オープンダイアローグに、とてもとても興味津々です!

いろいろな本を読んで勉強していますが、本を要約したり、どういうことかを簡潔に説明するのが苦手なので(ごめんなさい、今日は頭も回らなくて……)、「何それ!?」と気になった方は、『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(斎藤環、水谷緑=著、医学書院=刊)が、読みやすくわかりやすく、おすすめですので、ぜひ、お読みください。

そして、友人のTAKAHIROさんと、実験的にオープンダイアローグを実践してみよう! と計画しています(ここも丸投げで申しわけないですが、TAKAHIROさんのnoteブログをご覧いただけたらうれしいです✨)!

「オープンダイアローグを実践してみよう!」の計画について、6月30日(水)20時ごろから、TAKAHIROさんとインスタライブでお話します◎

いつものように、いきあたりばったりでそのときに出てきた話題を大切にするというような場になると思いますが……(これも、ある種のオープンダイアローグ!?)みなさま気が向いたらのぞいてみてください✨

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オープンダイアローグに関連して、少し……。

以前、ブログなどにも書かせていただきましたが、わたし自身、昔から「ジャッジしてしまう自分」に苦しみました。

「開かれた対話」の世界とは真逆です。

「ジャッジ」してしまうのは、自分のなかに正しさや正義があるからなのですが、信じられない速度で、自分や人や物事に、その正しさや正義をもって「ジャッジ」をしていました。

信じられない速度、というのは、自分で気づけないほどでした。その矛先が、一番多く向けられていたのは、わたし自身でした。

「ジャッジ」には、いろいろなことが付随します。まず、「反発」が必ず起きます。

一見よさそうなことも、悪そうなことも(それすら、ジャッジしているので、本当はよさそうなことも悪そうなこともないのですが)、「ジャッジ」が入ると、いちいち「いや、そうじゃないし」と小さくとも大きくとも「反発」が起きる…。

よさそうなことといえば、「わたしはしあわせだ!」「Aさんは、かしこい人だから人の悪口はいわない人だ」「冷えとり健康法はまちがいない健康法である」とかですかね。

悪そうなことといえば、「仕事ができないわたしは、人に迷惑ばかりかけている」「Bさんはいつも人の悪口いっているから、悪い人だ」「薬は絶対飲まないほうがいい」とかですかね。

(少し、バラエティーに富んだ内容にしてみました)

こう、書いていても、なかなか苦しい……。

だって、本当のところ、わからないですよね。

それぞれの人にとっての、それぞれの見解がある。そこに一定の正しさはあるのか……? 違いがあってあたりまえなのでは…? その違いを受け入れ、体現していくには…?

(と、これすら、自問自答しながら、自分との「対話」を続ける内容ですね)

もちろん、自分のからだやこころ、感覚を通して感じたことは存在しますし、それをことばにすることもとても大切なことですし、ことばにすることで明確になって、自分が心地よい世界にいられるようにバランスをとったりすることは、必要だと思います。

それを人と共有して、自分にはない感覚を味わったり、こころの豊かさが広がったり、生きやすい世界をつくったりすることもすてきだと思います。

そういうことを、「ジャッジ」をはずして交換しあう、共存する。対話を通じて、それを実践することで、自分の中から、自分だけの気づきや答えが生まれてくる。それを待ってくれる場所がある(自分自身を含めて)。自分から出てきた答えは自分の味方になってくれる。これからの人生をサポートしてくれる。

…対話からの「ジャッジのない世界」にすごく注目しています!

そして、自分自身の考えもうまくまとめられないまま、こうしてこの場に書くことも、ある種の「開かれた(自分自身との)対話」かもしれません。今回ばかりは、途上だけれど出してしまおうと思いました(実際、公開してから、書き直したりしました)。

東洋医学の考えかたである「陰極まって陽となる、陽極まって陰となる」ように、やはり陰ばかり、陽ばかりになってしまうのは苦しいし、絶対的な答えがあるのは不自然だと感じます。

白黒はっきりすることは、グレーが許されないこと。

グレーにも、濃い、うすい、やや濃い、ややうすい、など、グラデーションが存在するのに、です。

そうそう、先日、いつもお世話になっている東洋医学にくわしい鍼灸師の方が「本来、陰陽五行は存在しないのだよ。人間が、これは陰、これは陽、と分けた結果であるし、あれは五行でいうと……、と勝手に分類しただけだよ」とおっしゃっていて、それにも深く納得しました。

「(そのときのその人の)そのまま」がいいよね、それを重ねていくだけ、それ自体が目的なのだから、と思いました。

与えられる答えって本当に必要なのかしら。

「対話さえ続けば、あとはなんとかなりますから!」という上記でご紹介したまんがの帯文を、からだ全体で受け止めながら、オープンダイアローグの世界に入ってみたいなあと思います。