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「ゆでたまごと、自家製きゅうりの差し入れ」ホールアルバイト1年目の懇親旅行の母の心づけ。

今、精選女性随筆集 十一 向田邦子 小池真理子選を読んでいる最中です。

第一部 1974〜77年

P87 ゆでたまご 
 小学校四年の時、クラスに片足の悪い子がいました。名前をIと言いました。Iは足だけでなく片目も不自由でした。背もとび抜けて低く、勉強もビリでした。ゆとりのない暮らし向きとみえて、衿があかでピカピカ光った、お下がりらしい背丈の合わないセーラー服を着ていました。性格もひねくれていて、かわいそうだとは思いながら、担任の先生も私たちも、ついIを疎んじていたところがありました。
 たしか秋の遠足だったと思います。
 リュックサックと水筒を背負い、朝早く校庭に集まったのですが、級長をしていたわたしのそばに、Iの母親がきました。・・かっぽう着の下から大きな風呂敷包みを出すと、「これみんなで」
と小声で繰り返しながら、私に押し付けるのです。
 古新聞に包んだ中身は、大量のゆでたまご でした。ポカポカと温かい持ち重りのする風呂敷包みを持って遠足にゆくきまりの悪さを考えて、私は一瞬ひるみましたが、頭を下げているIの母親の姿にいやとは言えませんでした。・・
 私は愛という字を見ていると、なぜかこの時のねずみ色の汚れた風呂敷とポカポカとあたたかいゆでたまごのぬくみと、いつまでも見送っていた母親の姿を思い出してしまうのです。・・

精選女性随筆集 十一 向田邦子 小池真理子選

この話を読んでいて、自分も同じようなことがあったなあと。

自分の話。

 公共ホールのアルバイト一年目の時の慰安旅行といえども、組合かどこかで借りたバンに乗って、運転は職員が交代での懇親旅行。転職で、アルバイトだったから、母の気の使いようが半端でなかった。あまり仕事のことは話さなかったと思うが、泊まりになるんで、明日、懇親旅行だよと、話していたのかもしれない。

 すると、頼みもしないのに、母が気を回して、ゆでたまごをいっぱい茹でててくれてと、家で取れたきゅうりを、おやつがわりに食べれるように少しお塩をふって、適当な長さに切ったものを私が出かけるまでに咄嗟の勢いで用意してくれて、「これ持ってけ!!」とビニール袋に入れて、たんまり渡してくれた。
 内心は、ホールの職員は美食家だし、お金持ちだから、喜ぶかな?もしかしたら、ありがた迷惑じゃないのかなあ?と。でも、母がせっかく用意してくれたんで、こんなのいいよ!なんて言えず、黙って、受け取って、出たとこ勝負だなあと。

 まあ、なるようになるさと、母の心遣いを受け取って、職員の人に、「これ、ゆでたまごときゅうりだけど、差し入れです。」と渡した。

 ホールの人は、結構クールだけど、同じ田舎育ちで、言葉だけかもしれないけど、「ああ、こんなに!ありがとう!!」と。

 アルバイトって、本当に薄給だから、返って、ゆでたまごと自家製きゅうりの差し入れで、ちょうど身の丈にあって良かったのかもしれない。食べきれなかったら、処分なりなるようにしかならないと。


 私が、少しでも職場に馴染むようにという母の願いだったかもしれない。
 転職組のアルバイトだから、何かいつも怯えていたし、上の人からは、「いつでもやめてもいいぞ、あんたは、向かない」とはっきり言われていた。


 このゆでたまごとキュウリのことは、一生忘れない。


 これがあったから、職場の人たちからも、苦手なことは苦手、悪いところは悪い、でも、いいところもあるって、気がついてもらえた。


 「ゆでたまごとキュウリの差し入れ」は、自分にとっては、何かコッパ恥ずかしいような、それでいて、温かい思い出になっています。


 向井邦子さんが小学校四年生の時のIという同級生のお母さんのゆでたまごの差し入れで、気が引けたってことは、私の時代1991年と大体換算すると、もしかしてもしかしたら、かなり「貧乏の差し入れ」にみえたのかもしれない。それを何も考えずに、母がたくさんのゆでたまごとうちで取れたキュウリの差し入れって、時代を超えて存在していることが、何か不思議な思いがした。

 
それだけ、母が苦労して育ったということ、家庭をやっていくのもかなり苦労していたという証のような気がした。

向田さんの『愛』をテーマに短文を書くという依頼のエッセイの言葉を借りるならば、母の無償の愛って、時空を超えて、「素」。見栄も外見もへったくれもない、「素」。

私は、そんな母親に育てられたことを誇りに思う。

 


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