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なぜガリアーノのマルジェラのクチュールが衝撃的だったのかを考える

先週、インスタグラムを眺めていると、ふとひとつの写真が目に入った。コルセットをつけた、ヴィクトリアン風の装いのモデルが写っていた。

ひと昔前のファッションショーか何かなと思ったが、スクロールすると同じモデルの写真が、ひとつ、またひとつと現れ、気づくと私のタイムラインを占拠していた。ショーの他の写真を見ていくと、もう釘付けになり、顔がにやけ、興奮が湧き上がって来た。それが今季のガリアーノのマルジェラのクチュールショーだった。

1週間以上が経った今も、まだその興奮が冷めやらない。私だけじゃない。ファッションメディアもソーシャルメディアも、まだショーのことを話している。なぜこんなに衝撃的だったのだろうか。

ひとつは、みんな、ファッションの表現の解放を感じたのでは無いかと思う。近年、ファッションは「地雷を踏まないか」と「バズるかどうか」の間でしか作られていなかった。世間も何よりもまず「起用されたモデルに多様性はあるか」「どの文化要素を表現しているか」「政治的メッセージ性を持っているか」とアレルギーのように反応してきた。その結果は、表面的なインクルーシブなモデルのチョイスだったり、話題性重視の最新の「小道具」の使用に見て取れる。しまいには、クリーンガールエステティックやクワイエットラグジュアリーといった、「こじれた」流行の登場にも繋がっていた。

そこを、圧倒的な創造性が卓越できることを証明したのが今回のショーのように思う。ピックアップしようとすれば、極端にデフォルメされた体型や磁器のような肌、取り憑かれたような身体の動きの先に、さまざまな肌色やサイズのモデルの起用、古いガーメントのアップサイクルなどと言って擁護することはできる。あるいは、ガリアーノの経歴を取り上げて、キャンセルからのカムバックと政治的なまとめ方もできるかも知れない。しかし、緻密に作り上げられた世界観とイマジネーションの前では、やはりそんな議論が陳腐になってしまう。

もうひとつは、非社会性や退廃性、あるいはコンセプトとしての「不健康さ」の美の再発見や再評価であったのではないかと思っている。今や社会性があることと心身ともに健康であることが正義になり、美しさの判断基準でも権力を握っている。しかしその一辺倒が潔癖で完璧主義な文化を生み、こぼれ落ちたものとの分断を産んでいるように感じる。

身体をキャンバスとして、私たちは内面を表現する外観、つまり感情の形を構築します。

Maison Margiela インスタグラムより

非社会性や不健康さが正しいと言っているのではない。空想や個人のファンタジーにまで健康さを求めるのは不自然だと思うのだ。

私がこのショーを美しいと思ったかと聞かれたら、よくわからない。しかし、確実に得たのは癒しであり、熱であった。明日も何かを表現していきたいと、強く感じさせるような。




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