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トイレ掃除と美の神様

ふと思い立ちここ数ヶ月、毎日トイレを丁寧に掃除する、ということを続けている。トイレ掃除は運気を上げるというこという話しもあるが、私は自分の運気が上がることを無意識では望んでいない気がするので、その辺りは検証の対象外となる。

最初は「毎日掃除をする」ということで頭がいっぱいで、私の貴重な時間が削られる、面倒でやっかいな事をとっとと終らせる、ということにしか意識が向いていなかった。なんとなくうすぼんやりと撫でるように便器や床を拭き、力まかせにブラシでごしごしと便器の内側を擦る。雑すぎるものだから水がぴっ!と跳ね、顔に飛び「きーーーっ」となる。掃除をこなしているだけで、意識は掃除自体にはなく、早く終らせることしか考えていない。終ったらやれやれとノルマ達成で解放感とともに終了。そこにあるのは一日一回トイレ掃除をした、という単なる数字だけだった。

掃除をし始めて何日目ぐらいだったろうか。ある時から少しずつ細部が目に入るようになってきた。便器とタンクとペーパーホルダー、そしてタオル掛けぐらしか無いように思っていたが、よくよく観てみると色々な細かい部品から成り立っている。コンセントやヒューズや給水管などもある。ヒューズは便器の背後から伸びており、ヒューズの線にしっかりホコリが溜まっている。それから見えないところに謎のネジがあったりして驚く。そしてここにもやっぱりホコリがたまっている。見えないところに手を伸ばしたり、かがんで下から覗いたり。観ようと意識を持って観てみると、実に色々な物が見えてくる。そうするとだんだん親近感が湧いてきて、「便器くん」と呼ぶようになった。便器くんは毎回、新しい意外な顔を見せてくれる。

便器くんのパーツが目に見えるようになってきたら、今度は便器くんの微妙なラインに気がつくようになった。ほとんどの表面は決して平面ではなく、なだらかな女体のような曲面なのである。便器くんの滑らかな曲線は新幹線の鼻先を思い出す。新幹線も便器くんも美しい。美しい曲面から構成されているのだ。

そしてその曲面になるべくぴったりクロスが這うように心がけてみた。そうすると人馬一体ならぬ人便器一体(じんべきんきいったい)となる。笑い事ではない。見事に面に沿わせるように、そして滑らかに拭き上げると、それこそ一体感が得られてとても心地よいのだ。拭く時だけでなく、ブラシで内側を掃除するときも、力まかせにならないように、私−ブラシ—便器がひと続きになるように、ブラシで優しく便器をなでるように、表面からブラシを浮かせることなく滑らせる。便器くんを、ブラシを通して身体で感じる。もはや便器とダンスを踊っているようではないか。

掃除を始める時に、今日はどんな発見があるか、果たして便器くんと一体になれるか、と思う。これは私の心身の状態が大いに影響がある。余裕がなかったり気が散っていたりすると、はかばかしくない。逆に気が散っているときに、心を落ち着ける事ができたりもする。

トイレ掃除の一連の気付きによって、今、一番気になっているのは、身近な“人”に対しても同じように先入観無く、よく観て、よく感じてみたらどうなるのだろう、ということだ。同じように最初は反発して、それが過ぎたら色々な側面が見えるようになり、私の中に相手に寄り添う気持ちが芽生え、一体感のようなものを感じられるのだろうか。

人生の豊かさは功成り名を遂げることよりも、対象に美を見出したり、対象を感じたり、生活の中でそれらにどれだけ気付けるかってことなのかもしれない。

という感じで生活の一部になりつつあるトイレ掃除だが、やっぱりめんどうくさいことはめんどうくさい。寝込んだ時に「今日はサボろう」とおもったら、解放感に包まれた。人間の業はそんな簡単に昇華されるものではないですね。

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