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うそがないということ

高校の夏休み、自分が何をやっていたのか記憶がない。部活動もバイトもしていなかった。甘い青春の思い出も無い。通学に1時間かかっていたこともあり、近所に友人はいなかったので、わざわざ友人と会って遊ぶということもあまり無かったと思う。今となっては夢のような40日間連続の休みを、いったい何に費やしていたのか。わずかに残っているのは飼っていたリスの記憶だ。床にうつぶせに寝そべり、ケージと同じ目線で漫然とリスを眺めていた。それは決して動物記が書けるような緻密な観察ではない。狭いゲージの中で行ったり来たり、同じ動作を繰り返している姿をただただ眺めていた。世間では青春時代と呼ばれ、なにか浮き足立つような活気があるはずの時期に、ただぼうっとリスを眺めている自分は大丈夫なのかと思いながら。

リスはしなやかで躍動的な、けれどもどこかコミカルな動きで、シッポを上手く使いゲージの中を右、左、右、左とせわしなく動いていた。時折、ふと立ち止まり、虚空を見つめじっとしていたかと思うと、おもむろに後ろ足で首のあたりを激しく掻いて、気が済むとまるで何事も無かったように、右、左、右、左と華麗なステップを踏み始める。そして或る時突然、動きが止まり隠していたひまわりの種を食べ始める。熱心に食べていたかと思うと、ぽいっと種を投げ出し、また右、左、右、左と動いたり、虚空を見つめたりしていた。

何が起こる訳でもなかったけれど、私は飽きずにその姿を見ていた。何を考えているかわからない、私から見ると突拍子もない意味不明な動きがとても面白かった。身体がくすぐったくなり、笑いたくなるような感覚があった。

そして忘れがたい人生の時間を共にしたワンコもそうだった。先天的に代謝に問題を抱えていたため、食べ物が制限されていたこともあり、いつもお腹を空かせていた。ドックフードのカラカラという音が微かにしただけで、どこにいても飛んできて、目をキラキラさせながら、ご飯が食べられると信じて疑わない様子で見つめてきた。時には床に腹這いになり手足を投げ出して寝ていたかと思うと、突然むくっと立ち上がり、場所替えをしてまたばたっと寝てしまう。体温で床が温まり過ぎて、冷えているところに移動したのだと思うが、その一連の動きを目にするのがとても好きだった。ただ暑くなったら移動したのだ。食べたいから走るのだ。

それと同じ感情を抱くことが人に対してあった。一人は私が学んでいるイメージコンサルの師匠。しなやかに動く身体と楽しげだったり、時には自慢げだったり、真剣だったり、破顔一笑したり、照れたり、恥ずかしがったり豊かな表情と自然に溢れ出る言葉。思わず「うちのワンコみたい」と聴きようによっていはたいそう失礼な表現を面と向かってしたこともあった。

もう一人は非二元のティーチャーであるルパート・スパイラさん。穏やかで時空を超えたような佇まいとゆったりとした声で、真理を語る動画を見ていた。すると静かに腿に置かれていた手が、おもむろにゆっくりと口元に運ばれた。語りは止まることなく、同時にその手がゆったりと鼻の下を掻き、静かにもとあった場所に戻された。思わず笑ってしまった。その感覚は夏休みのリスを見た時と同じだった。

そして思い出したのが哲学者の鈴木大拙さんとの初めての出会いを語る岡村美穂子さんのお話しだった。多感な女学生で大人を信じておらず、犬や猫など動物たちだけにしか心を赦していなかった岡村美穂子さん。そんな岡村美穂子さんが、会ってみると良いと人に勧められ、公演で演壇に向かう鈴木大拙さんを初めて見た時に「動きにうそながい」「この人は信用できる」と思ったそうだ。

そうなのだ。私に喜びをもたらす動きにはまったくうそが無いのだ。そうしたいからそうしていて、そうしか動けないからそう動いている。何かに気をとられたり、余計な事を考えたり、損得の感情などしていない。

うその無い動き。それがそれであるように動く。風に身を任せ気持ち良さげにそよぐ草花や、激しい風に踊るように大きくゆれる木々。空を滑るよう舞いながら、優雅に散っていく色付いた葉。その場所でその瞬間における、完璧な有様。それを目にした時、心と身体はささやかにけれども深く深く満たされる。輝きに満ち幸せな気持ちになる。

何か棒に振ってしまったように思っていた、高校生活。
私はうそのない姿に心惹かれていたその瞬間、満たされていたのだなと思ったら、今の私が豊かな気持ちになった。うそのない動きをみていた私にもうそがなかった。私は真実を忘れたことなど無かったのだ。

こうやって丁寧に観ることで、過去のモノトーンの記憶が少しずつ書き換えられ彩りが増して行く。喜びが溢れる。

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