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ノラ・ヴェラキッカを愛する① 一幕

配信ですが、拝見しました。
ばりっばりに結末に言及しまくる感想文を、いくつかに分けて書く予定なので、ご承知おきください。
その上、関連作品は一つも見ていないので、考察部分は空想妄想を含みます。
むしろ、空想と妄想しかありません。
これ見るといいよとか、あれを見てくれとか、こうなんだよ、とか。そういうのは歓迎です。Twitterの「迷」までお知らせください。


曰く
「美弥るりかのサヨナラショーだ」
「美弥るりか演じるノラヴェラキッカを愛することが、ヴェラキッカ家の家訓なれば、ファンはみんなヴェラキッカのファミリーだ」
ついでに年始に松下さんのファンの友人から、配信で見る予定と聞いて、じゃあ僕も見てみるかと思い立って配信を買いました。

「trump」シリーズという、いろいろなお話のうちの一つで、吸血鬼がでてくる。それだけ。
どれだけお話に乗れるか、ドキドキする。
さいわい、配信の画面に用語解説が流れていて、それで大体世界観を把握できたので、思ったよりすんなり物語を掴めた気がして、期待感が上がる。
この作品、作り込みが丁寧だし、観客を世界に誘う手法をちゃんと知っているぞ。こいつぁ上等な「エンタメ」だ。と、冒頭部分だけでそんな期待感を抱かせる、上等さ。
劇場に向かう道すがらや、劇場でプログラムを買って、トイレを済ませてプログラムを読みながら開演を待つような、開演前から始まるワクワクを、劇場にいなくても少しだけ感じさせてくれる素敵な演出だった

(後から知ったが、10年以上続くシリーズで、あの刀ステとか、鬼滅ステとか、あれやこれや、超ベテランの作家さんの作品。そりゃあ初見さんを置いていくはずがない。)

さて、開演。
冒頭、物語の案内人のように、主人公ポジションのキャンディが、自分の身の上を語り、その彼女がヴェラキッカ家に入る過程を追って、観客もヴェラキッカへと誘われる。
そう、ヴェラキッカ家の共同幻想へと。

主演、美弥るりか演じるヴェラキッカ登場で、思わず拍手したくなるのは我々宝塚のオタクの生態だが、「It’s entertainment!!」ってな具合でバリバリに管楽器が暴れ回る音楽と、ぴかぴかの照明。そしてキャッチーな♪ヴェーラーキーッカ!♪のフレーズで、手拍子入れて、美弥さまかっこいーって一緒にぶち上がりたくなるから、多分拍手して正解。

なんだか流されるようにノラヴェラキッカを頂点とした一家に迎え入れられるキャンディ。純な思春期の少女ながら、ヴェラキッカに染まりきっていない外来者として、我々とヴェラキッカ家を繋ぐ窓に設定されている。
キャンディを通して気がつけば初めて見たはずのノラを、私たちも共に愛している。
同時に、ノラを愛するが故にノラに愛されたいと願う、狂ったような愛の奴隷たちに、共感や、同意を覚えている。

そのうち言及しますが、ノラを愛するみんなって、美弥るりかを愛するファンの姿に重なるんです。
宝塚時代の美弥さんのお茶会に一度だけ参加したことがあります。全員とハイタッチなる企画で、美弥さんのやわらかい手に触れたことがあります。
実在するんだなあという当たり前と、触れて一層感じる我々ファンと、タカラジェンヌ美弥るりかとの距離と。
だから美弥の民はきっと同じようなことを感じたに違いない。
美弥るりかさんを愛している自分は、多かれ少なかれあの、ノラを追いかける家族たちと同じだと。

しかし、その生活の中でなぜか、キャンディは少しだけ冷静にその愛の虚ろさに気づいていきます。
ノラが望んだ愛ならば、虚ろな愛でも与えたいと語るキャンディ。
屋敷の住人たちもまた、何故か愛の向こうに罪の意識があったり、別の人への愛を自覚して、それでもノラを愛さなければいけないという意識との間に挟まれたりと、だんだんと現状への疑念が膨らんでいく。
言われてみれば、どこか狂気じみている。
繭期と呼ばれる思春期の子どもたちの、情緒の不安定さが埋もれるくらい、不安定な様相の大人。
そして、観客の疑念がキャンディとジョーによって言葉にされる。
これは、ノラがみんなを噛み、イニシアチブを握った上でみんなに『ノラを愛せ』と命じたのではないか。と。
シオンが途中で語っていた。「わがままくらい許してやらなくては。僕たちはそれだけのことを、ノラにしてしまったのだから」(という雰囲気)

そして、まるでそれをさらに裏付けるような、「愛でかたどられた、共同幻想」というセリフが、ノラ自身の口から語られる。
一幕は終わり、暗転。幕は降りない。
登場人物のいなくなった仄暗いセットが、まだ世界はそこにあるぞと囁く。
観客を世界に繋ぎ止めたまま、現実に帰ることを許してくれない。

二幕一体どうする気だよと、僕はモヤモヤニヤニヤしたまま、作り終わった杏仁豆腐のタッパーを脇によけて、解凍しかけた豚肉をフライパンに放り込み、夕食の支度をする。
画面のこちらは、悪いがひと時現実に帰らせていただきます。

愛ってなんなんでしょうね。
僕自身、友愛だとか情愛だとか、恋愛だとか親愛だとか。色々な形の愛に現在進行形で悩むばかりです。

贔屓のことも、友達も、タカラジェンヌや役者を含めた芸能人たちも、仕事で関わる人も、家族も飼い猫も自分も愛してる。みんな違う形でだけど、一言で言うなれば愛してる。

芝居を好きな人はみんな愛することや愛されることについて、真面目に考えたことがあるはずだと、思っています。
かの有名なエリザベートでも、死を愛するようになるって一体どういうことなのかをぐるぐると考える羽目になるし。
先日見て来た今夜ロマンス劇場ででは、触れずに愛することができるかって問われたし。
芝居に限らず創作をする上で、愛って普遍のテーマです。

今作ここまで見て、『命じられて愛したその愛は、本物か』を、投げかけられたように感じました。
キャンディは、本物だと信じてる。観客もそうあれと信じたく思っている。
でも、キャンディは、信じていると同時に、イニシアチブが解かれた時にそれが消えてしまうのではないかということを、恐れている。
それはそれで、おもしろいと僕は思う。
全ては夢。幻想。愛も消えて絶望のうちに終わればそれはそれでおもしろい。
でも、そんな物語じゃ、作品としては面白くない。
愛することがイニシアチブというプログラミングによるものだとしても、愛した記憶は積み重なっていて、それで苦しかったことも嬉しかったことも、幻なんかじゃなくて全部本物だったって、心の宝箱に仕舞い込むのかなって。
そんな結末を想像しながらもぐもぐお夕食を食べて、いざ二幕

続く

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