教育の質的転換を求めて(2)
😊 育ちのベースとなる概念
また少し間が開いてしまった。元となる文章はあるのだが(過去私が授業をしていたときの講義ノート)なんとなく、日々過ごしていたら、今日になってしまった。と、書くと、日々何かしているようだが、単に無精なだけ。今日は雨。で、久しぶりに書くことにした。
今回は、具体的なことを記述する前に、その具体的な内容のベースとなることを記述していくつもり。
人の育ちはどのようになされていくのであろうか。それを考えるのは簡単なようでいて難しい。人の育ちと改めて言わなくても、地球に存在する動植物は、全て、生まれ、育ち、死ぬ(以下、「死」については省略)。
動植物と人の生まれ育ちは異なるのであろうか。同じなのであろうか。
それは人類の長い歴史の中で自問自答され、そして、様々な見解が提案され、その問いに対する回答には深みが増していった。
改めて記述する必要は無いと思うが、保育者・教師が育てる子どもたちは、「人を育てる」のである。
では、ここで問いたいが「人を育てる」というのは、どういうことなのであろうか。
動植物と記述すると極端すぎるので、動物と記述するが、人を育てることと、動物を育てることは、同じなのであろうか、それとも異なるのであろうか。
このことを明らかにするためには、「動物とは何か」、「人(=人間)とは何か」と言うことを深く考えていくことが必要となる。
「人」について、少し考えてみよう
世の中には「良い人」と言われる人は多数存在し、「悪いこと」と表現される「法を犯す人」も多数存在する。いつの時代も同じである。その「良い人」も「悪い人」もある意味「育ち」の結果である。
2016年の障害者施設を襲撃した犯人もしかりである。
私たちが子どもと関わり、子どもを育てようとする場合、そこには「悪い人」ではなく、「良い人」のイメージが頭の中にある。
でも、ちょっと考えてみよう。人は誰しも生まれたときから「悪い人」になろうと生きていく者はいない。また、「悪い人」に育てようと考えている「先生」や「親」、「地域の人」はいない。
しかし、世の中には「良い人」と「悪い人」が存在しているのは確実な事実である。「法を犯さない」けれども、多くの人から「悪い人」と見なされる人も多数いる。
「良い人」と「悪い人」の育ちは何が異なるのであろうか。
このことに関しては、昔からいろいろと考えられてきた。
「性善説」と「性悪説」はその代表である。
でも、人は生まれ持って「性善である」とか「性悪である」というならば、保育・教育はあまり意味が無いといえるのではないだろうか。
また、赤ちゃんを見ていると、「性善」とか「性悪」とか考えるのはあまり意味が無いと思える。
世の中には、育ちの基本を「主体と環境の相互作用」と、考える人たちがいる。というより、今日では、この説が主流である。
この説でいろいろな現実を考えると、ほとんどの現実が説明できる(「ほとんど」と表現しているのは、私が現実に生じたこと、生じていることの全てを知らないからである。単にそれだけの理由。)。
今回の記述は、哲学的なものとなった。しかし、上記のことを深く考えながら「育てる」ということを考えていかないと、見えるべきことも見えてこない。
これ以後、「幼児教育における10のキーワード」について記述する予定であるが、全て「育てる」ということを中心に記述している。その根底には「『良い人』というイメージ」が常にあるということを忘れてほしくない。
だから読みながら自分なりの「『良い人』のイメージ」を描いてほしい。
加えて、自分が育てる子どもたちは、「未来を生きる人」である、ということも忘れないでほしい。
また、「幼児教育」と書いているが、教育に関わる基本と考えてもらってもよい。どの年齢においても、「10のキーワード」の「1」から考え、関係を重ねれば、子どもたちはしっかりと育っていく。
学級崩壊しているクラスの子どもたちならば、なおさらである。
ということで、ここまで記述して、今日の、興味のエネルギーが切れてしまった。あとは後日ということで。