地方の歴史と人間関係に生きるのは、これから意外とアリかもよ、という話 #0130
今日は少し庭の話から離れて、地方移住(?)絡みの話。
地方の、いわゆる僻地に住んでいると実感するのが、地方はやはり人間関係が濃密だってことなんです。マフィアか!とツッコミたくなるほど、ファミリー感満載。
地元の会社や個人事業の方と関わっていても、全員知り合いなんすか!?ってほど。
電気工事の方と話していたら、わたくしの家の隣の奥さんが、その電気工事士と同級生だったり。材木を運んでくれた業者さんが、古い家から出てきた味噌樽を見て、これは自分の祖父が作ったものだ、という話があったり。
あの人もこの人も知っている、ということが頻繁に起きます。
人間関係が密な感じが苦手、、という人にはキツイ環境だとは思います。
何しろわたくし自身、友達が極端に少ない人嫌いタイプなのでこの環境がキツイのかなーと当初は思っていました。が、まあ割り切れればそんなに大変でもないかな、という意外な発見があったりしました。
というか、関わり合いの中で、お互い扶助的に生きている形跡が見えたり、地方の歴史の中に生きるのは意外とこれからはいいんじゃね!?と思ったりしています。
集落で一般的な「三世帯住宅」
集落暮らしで驚くことの一つが、いまだに三世帯同居が当たり前の家ばかりってことなんです。
東京で核家族的な暮らししか見ていない人にとっては、完全に異世界。
そういえば、昔ホームステイしていたインドネシアなんかは家族関係が密だったし、スペイン人(ガリシア人だけど)の友人に聞くと、スペインは三世帯同居が当たり前とのこと。こういうところは、東京とかの都市部より、海外の地方の方が親和性高そうですな。
地方がイヤで出て行った人にとっては三世帯なんて冗談じゃないだろうし、実際自分が20代の時だったら絶対にイヤ!と断言していたと思います。プライバシーないし、密な人間関係キライだしね。
「自分のことをみんな知っている」閉じられた環境は、息苦しくて特に若い世代にはしんどいだろうなーと思います。未だに封建的な「男は仕事、女は家事」みたいな考え方もあるし。
近所の人から見たとき、ウチみたいな共働き核家族は理解し難いだろうなーと思います。
例えば。今の集落に引っ越してきた当初、冬の除雪に除雪機を使うか検討していると隣の家の人に話しました。すると「2人で手でやれ(庄内弁)」ということを言われたわけです。
ふざけてはいけない。2人とも個人事業で働いていて、家事育児を回して、さらに強烈な除雪もやるってのはかなり大変なんです。三世帯で暮らしていて、おじいちゃんが毎朝除雪することに慣れていることとは違うんです!あなたとは違うんです!(ギャグですよ)と言いたくなるわけです。
まあこういうところは、移住者かつ核家族だと理解されづらい集団形成なので、この辺はなんとかしていかないとなーと思うところですね。
セーフティーネットとしての集落的環境
一方、冒頭のような密な人間関係はセーフティーネットにもなります。
子育てをしていて一番感じるのは、人手が多いから、圧倒的に子育てはラクそう。ということです。
両親仕事をしていても、おじいちゃんかおばあちゃんが家にいれば面倒見てもらえるし、食事だって誰かに作ってもらえる。何しろ家賃はかからないし、生活コストは低い。
農家をしていれば、職場は住居に近接しているので、時間的な制約も少ない。(職住近接についてはまた書いてみたいところです)
自営業をしていると、仕事の融通などお互いし合うので、個人での仕事はやりやすいところはありますね。口コミで仕事の口はどんどんつながっていきます。
生活する分にはお互い支え合っているので、「なんとかなる」感はだいぶ強いです。
また、地元の葬儀などに出向くと、同級生が家族のようになっているので、自分のことをよく知っている人がいる点で精神的に楽な部分はあるよなーとも思います。
この辺は見方によっては良いことなのかもなー。
家族の関係が密であることはレアになるのか
こうやって見ていると、家族ってのがだいぶ拡張されて認識されているようにも見えます。このあたりが「マフィア的ファミリー」という感じですね。素性も割れているからね。
この密な人間関係orファミリーのつながりみたいなものって、今はすでにレアに感じますが、未来はどうなるんだろうか、と思うわけです。
ルーツが曖昧になって、世界どこに行っても同じような嗜好性を持つ現代においては、このレアなつながり感と、受け継がれたルーツというのはとても価値が高いのんじゃないだろうか。
生きている場所自体にストーリーがある、というのは土地や個人の特異性を際立たせるわけです。「歴史を語り続ける」ということが土地側にとっても大事なことだしね。
わたくしは色々な土地に住んでいたのでルーツは極めて曖昧ですし、簡単に移動できる現代では身の回りにそういう人が多くて、最近は多様な経験をしている人を「逆につまらない」と思うようになりました。(失敬!)
ストーリーのある土地で育つ子供は、大きくなった時に語れる自分の背景というものが明確で、社会の中での特異性というのは際立つと思うわけです。
わたくしの兄弟もいとこもみんな東京ですからねー逆に多様性ないんじゃね??とも感じるこの頃です。
相対化できるか否かがポイント
一方で、「相対化する」ということも大事だと思っています。
海外に出ることで日本のことをよく理解できるように、ファミリーや地域から出ることで、自分のいる場所のことをよく知れるようになります。
わたくしが、集落的な集団のあり方の良さを認識できるのも、色々な土地に行って相対化できている部分があるからじゃないかと勝手に想像していますよ。
それだけの機会提供ができる、ということも必要なんだと思います。
教育文脈で言えば、地域外の体験や歴史を知ることなど、外に出る機会はどんどん提供した方が良いと思うわけです。
地方において不足しているのはその機会提供の部分なんですよねーー。
教育機会を作って、逆に外に出ることを奨励したり、オルタナティブな教育や職業の場を作ることで、その土地に「いやすくする」ということにつながるのではないかしら、と思うのです。
が、地方の話では「人を呼ぶこと」ばかりで「出すこと」に戦略性がないんですよね。そんな自覚がないというか。
相互扶助(補助?)の仕組みを意図的に作る
とは言っても、これから新たに三世帯を実現していくのはなかなか個人的、社会的コストが高いことだとは思うのです。
なので、地域全体でコミュニティ的に、広い意味でのマフィアのファミリー的に人間関係を構築していくのが、方向性的には良いような気がしています。
この話でふと思い出したのは、以前コテンラジオで紹介されていたコミュニティーナース。地域での相互扶助かつ「多様性のるつぼ」を作る、という意味でとても可能性を感じます。
コミュニティーナースを置くことで、意図的に地域コミュニティに人的交流を作って支え合うことができるようになります。これは地域のマフィア的ファミリー感を若い世代においても維持していく上で、とても大事な観点だなーと思います。
5人のコミュニティーナースで2000人繋げられるっていうからね、すごい話です。
核家族的子育てだったり移住者として入っていくのに困難を抱える身としては、とても良い取り組みに見えるので、コミュニティナースの回、ぜひ聞いてみてください!
ルーツを持つことは、これからの時代けっこういいと思うよ
あれこれと言いましたが。自分のルーツを明確に持つというのは、これから結構いいと思うんですよね。
大陸だと、混血が進みすぎてルーツがわからなくてアイデンティティクライシス、みたいなことは多いです。若い時のわたくしは、ミックスルーツは多様でかっこいい!と思っていましたが、大人になって周りを見ていると結構大変そうです。「自分が何者か」という悩みを常に抱えていた。
自分と遠いパートナーとの間に子供がいたりすると、別れた後(離婚が当たり前だしな)、遠くに住むパートナーとの間を(時には国をまたいで)子供が行き来せざるを得なくなったりするのがハッピーかと言われると、必ずしもそうではない気もします。
まあどっちにも一長一短あるけどね。でも多様であることの大変さは体験して理解しようとする態度は必要だと思うんです。
マインドとして、多様性を持つこと、理解しようとすることはほんとーーに大事だと思います。でもそれ以上に、自分の歴史や土地に根差したまさに「ルーツ」も大事だと思うんですよねーー。
背景がしっかりしている、ファミリー的な歴史がある、ってことはこれからの時代よりレアになってくると思います。歴史を語れるってのは「その場所であることの意味」が明白ですからね。価値が高いですよ、ほんとに。
ではでは!