『春と修羅』と「動的平衡」 7 高田耕造 2024年12月10日 18:31 ChatGPTの o1 pro modeに下記のプロンプトを投げてみました。ChatGPTに投げたプロンプトのキャプチャそうして返ってきた回答が以下になります。宮沢賢治の『春と修羅』冒頭において提示される「私」は、「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」という比喩的な表現によって、静的な実体としての「私」ではなく、外界との相互作用の中で絶えず生起・消滅を繰り返す、一種の動的な現象として描かれている。この「私」は「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」であると説明され、単一で固定的な本質を持つ存在ではなく、多層的で、透明な要素が複雑に交錯し合うことで成り立つ束のようなものとして提示される。さらに、世界の風景や「みんな」といった外界との繋がりの中で、「せはしくせはしく明滅しながら」とあるように、発光と消滅を反復しながら存在し続ける。この連続的な生成消滅のプロセスは、「因果交流電燈」と呼ばれる関係性のなかで、「私」がひとつの照明として点滅を繰り返す様を強調している。ここには、「自我」や「主体」というものが、固定化された内的本質に根差すのではなく、むしろ場や関係性、現象的な相互交流によってそのつど形作られる「現れ」として捉えられている。このような「私」の在り方は、福岡伸一の提唱する「動的平衡(dynamic equilibrium)」の概念と類比的に理解することができる。福岡は生物学的な観点から、生物とは固定的な実体ではなく、周囲の環境との絶え間ない物質・エネルギー交換によってかろうじて一定の秩序(均衡)を保ちつつも、その内部構成分子や要素が絶えず入れ替わり続ける動的な存在であると説く。生物は形を保ちながら常に変化し続け、自己同一性は「流れ」の中で成立する。この考え方を「私」という概念に当てはめるならば、宮沢賢治の描く「わたくし」もまた、何か本質的で変わらない「心」や「霊魂」によって定義されるのではなく、外界(風景や他者、社会、関係性)との不断の相互作用によって、そのつど成立しては失われ、新たに生起するような、流動的かつ可変的な「存在の状態」であるといえる。ここで「仮定された有機交流電燈」は、一見すると自我を照らし出すもののように思えるが、その実態は有機的、つまり生物的な動態性を内包している。流れる電気や有機的なエネルギーのやり取りは、福岡の言う「動的平衡」を想起させ、「私」という存在は、固定的な実体ではなく、光を放つ刹那的な現象として、外界との間でバランスを取りながら常に生成・消滅し続けているのである。まとめれば、宮沢賢治の「私」は、福岡伸一の「動的平衡」の概念に重ね合わせれば、外界との止むことなき相互作用と流れの中で立ち現れる、固有の本質性を固定し得ない「動的な現象」として理解できる。つまり「私」とは、関係の網目や相互作用のプロセスの中で瞬間的に成立する光のような存在であり、不断の流動性のなかで生起し続ける関係的、現象的な「生きたバランス点」として捉えられるのである。https://chatgpt.com/share/6758099e-639c-8010-93ce-64ed89ae3785ひたすら感動していました。補助線を引くようなプロンプトをたくさん投げてみたいとますます思う一日でした。 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #ChatGPT #宮沢賢治 #福岡伸一 #動的平衡 #春と修羅 7