わたしの問題の為に嫌な思いをする役目として登場したのなら心の底からごめん。
確信にはまだ出会えていないのだが
過去に傷ついたわたしの心を置き去りに
してきたはず。
勝手に見下されたと感じている。
欲しいものを欲しいというのはいやしいと思っている。
だから、みんながもらっていても『まだ、もらってません。』と言えなかった小学校時代。
習っていたお習字で月に一回だけお菓子が配られる。
先生に『もらった?』と聞かれても『もらってません。』が言えなかった。
それは恥ずかしいことだと思っていた。
すると先生が『もらってなかったら、もらってないって言っていいのよ。』と教えてくれた。
かなり小さい頃、記憶にもない頃に父の仕事が上手くいかずに貧しい生活を強いられた。
田舎だから、偏見や差別を母は感じたと思う。4才上の姉は少し記憶があり、お金が大事なんだと身体を壊しながら貯金をしたという人。
田舎にいてはダメという事で家族で少し都会に住むことに。
周りの目がないだけでも楽になったのだと思う。
社宅という環境で幼少期を過ごした。
いつも『お父さんが困るから、挨拶をしなさい。時間を守りなさい。友達を連れてきてはダメ。等々、細かなルールがあった。』
次女が故にルールを少しずつ破っていく。
それなりに注意を受ける。
『いつもあなた達を大人が見ている。人が見ている。』と言われ続けた。
中学生くらいになると一人で本屋もスーパーも行けなかった。
周りの人が自分を見ているという恐怖から。
それでも、今の様な引きこもりと言う言葉もないおかげで自分でそのレッテルをはらずに少しずつ開放された。
中学生になる前にその社宅を出て団地に住むようになったからだと思う。
いつも何とも言えない生きづらさとは一緒だった。
10階に住んでいたので、夕食がすむと決まってベランダに出て、空と下を見ていた。
明日が幸せであります様に…と、死にたい気持ちの間にいた。
別にいじめられたりしたわけでもない。
勉強も普通。
友達もいた。
だけど消えたい気持ちがずっとあった。
誰にも大切に思われていない感じがした。
自分がいてもいなくてどっちでもいいと思っていた。
家族に特に何かあったわけではない。
姉の口癖が『一生恨んでやる。』だった。
いったい誰をなのかさっぱりわからない。
中学生か高校生になったくらいの頃の話。
中学2年生の冬に父が亡くなった。
どんなに必要な存在であっても死ぬんだと感じた。
飲めないお酒をのんでタオルを握りしめて泣く母親をみた。
1ヶ月くらいは泣いていた。
まわりが泣くと泣けない。
荼毘にふした時に声をあげて姉が泣いた。
涙は出たけれど、その時も泣けない。
一人の時に泣いた。
母は母の立場で、姉は姉の立場で、私は私の立場で悲しい。
ずっと貧しいからは抜けていない。
ただ、住む場所とご飯が食べれたのだから、貧しいとは言え生きてはいける。
その頃から、その年齢らしい生活を親に甘えられる生活は減った。
朝はそれぞれ自分で起きて行く。
朝ごはんもお昼も夜もそれぞれが出来る様に準備する。
共同生活化した生活。
1週間に1回だけお弁当の日が母の休みの日。
頑張ってくれていたと思う。
お弁当をあけると野菜とフライの2種類。
自分は何とも思わなかったが中学生とは言え、まわりは子ども。
おかずが少ないと笑われた。
まぁ、大人びた私は意を返さず。
受験の時、私学の発表が郵便で送られてくるので、郵便受けまで見に行って欲しいと電話で母にお願いしたが断られた。
仕事の合間の休憩時間だから。
当時はすべり止めで受けるが現実的には通えない。
公立に受かった時は涙が出た。
高校に行ける。
友達も出来て楽しいが勉強がさっぱりついていけない。
数学の非常勤講師に質問したら、『君に教えてもわからないから。』と断られた。
まぁ、考えられない返事。
ここで、勉強をあきらめた。
それでも学校は楽しかったので、遅刻も欠席もなく通った。
レポートを出して点をもらって卒業。
ここまでが高校生活。
細かなことはまだある。
そう言えば、仲良しの男子二人のうちの一人がみんなで追試の勉強をしようとなって、なぜか二人で移動するとみんなとはぐれた。
喫茶店でお茶をした。
そのときに今で言うチャライ子で、でもいろんな苦労したい子だった。
『お母さんはお母さんの人生がある。わたしもわたしの人生がある。』と伝えてきた。
でも、その時に父がこの子を通じて話してると思った。
そんな感覚があった。