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「目と目が合ったら、ミラクル〜」挨拶の魔力

初の海外赴任で、初のロンドンの暮らし。
実は1日目から、馴染んでいく感覚があった。


旅行者と住民は何が違うか

「旅行者に見られるだろうな〜。
 でも、”住む”んだから、旅行者には見られたくないんだよな〜。」

そんな自意識が頭をもたげる。

学生時代、ホテルなど事前予約せず、行き当たりばったりな貧乏な旅行をしていた。1ヶ月以上、割りと気ままな感じでヨーロッパに滞在したこともあるが、やはり、住民みたくはなれなかった。
堂々とかっこよく歩けなかった。

「だけど、その時とは違う」

もちろん、スーツケースはゴロゴロしないし、パスポートも常に持ち歩かない。
やけに歩きやすいカジュアルな格好でもない。

「私はここの住民です」

子どもの手を引いて、看板をぶらさげたいような気持ちだったかもしれない。

だけど、住民になれるかなれないかは、それは私次第ではなかった。

要因は、外にあった。


悲しいくらい嬉しかった。

スーパーの定員
カフェの定員
クリーニング店の定員
薬局の定員...

みんな、レジに立てば、目を見て挨拶をする。

それだけだった。
それだけで、私は”住民”になっていた。

私は、悲しいくらい安堵していた。

すぐに、自意識は消えた。

私はここに居る。他者の目に映っている。

そして、クリーニング店に2度目に訪れた時、私は本当に心から驚いた。
インド系の顔立ちのおばさんは、私の名前を覚えていたのだ。

”MUNAKATA”

覚えやすい??
日本人の名前に馴染みがある? いや、全然いない地域だった。

私のマンションを出て、10秒先にあるクリーニング店。
それ以降、私は外から店内を見て、目が合うと、手を挙げて、とびっきりの笑顔を向けるようになった。

”私はここに居るよ...”

名前も知らない店員と、名前はわかるママ

Hi, TOMOKO   how are you?

あちらでは、顔見知りであれば、名前付き、how are you付きで挨拶する。
この3つはセットで、絶対だ。だけど、How are you?にはまともに応えなくてもいいらしい。
言える数秒を待たずに、サーっと立ち去っていくことも日常だからだ。

娘の現地校には、イギリス人はクラスに数人。ヨーロッパ各地、インド、中東、アメリカ、オーストラリア、アジア、ブラジル.....。正真正銘、世界中の人が居た。

家から学校までは、徒歩5分。親が送迎するので、集合の1−10分程の時間帯に沢山の在校生親子が行き交う。

登校時の挨拶は基本は目は合わない(気がする)。
前から歩いてきても、私が眼中にないという風で、通り過ぎることもよくあった。
近くに立っても、声を掛けなければ、構わない風だったりもする。

最初の頃は寂しいから、よく顔を覗き込んで、挨拶した。
肩や腕に触れるのには勇気がいるから、相手の視界に自ら入るのだ。
そうやって、会話するようにしていた。
でも、ブラジルのママは、肩に触れて挨拶してきてくれて、ハグもしてくれた。だから、当たり前だけど、人による。

それにしても、名前を呼ばれるのは、本当に心地の良い感じがした。
毎日のことでも、Tomoko~、Tomokoと、挨拶のとき言われるのは気持ちがよかった。どっちが先に挨拶するかなんて、何も気にならなかった。


私の安心感、幸福感が科学で広がれ!


以前、日本のTVで、”向こうの方から知り合いが来たら、何メートルの所で挨拶するか”ということで、芸人さん達が盛り上がっていた。
こういう感じが繊細さんならば、私の暮らしたあのロンドンの街には、繊細さんはいなかったと思える。

日本に帰国して、道を歩いても、スーパーに行っても、カフェに行っても、誰とも目が合わない。

帰国したばかりのころは、道ゆく人に挨拶したくなった。

あの頃の私は、目と目が合うだけで幸せを感じていた。

この街の住民と思えた。

そして、それが本当の幸せだと知った。
いや、脳科学的な”人間の幸福”だと知った。

最近読んだ、幸福学の本に書いてあったからだ。


脳科学的な幸せでもいい。
人工的な、幸福でもいい。
そうやって、スーパーの店員さんと、カフェの店員さんと、気持ちよく挨拶できる世の中が私は好きだ。
そこはとても心地が良い空間だった。

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