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「言語は存在の家」or「非存在の家」
ハイデガーは
「言語は存在の家」
対して
ラカンは
言語は「非存在の家」 と定義する
どちらが正しいのだろうか?
どちらも同じこと
言語が非存在を存在の家とするからだ (⬆️挿絵)
(出典 下記 別稿参照)
したがって
ニーチェは「遺された断想」で
ひとはつねに強い者を、弱い者たちの攻撃から守らねばならない
という。
というのも
ルサンチマンは
「自己自身に対する勝ち誇れる肯定」
を持たない弱者の
「外のもの、他のもの、自己ならぬもの」
つまり強者に「対して否という」
「裏口を好む」「不正直な創造行為」 だからだ
ーニーチェ 道徳の系譜学 第一論文
「おまえが何者か、
私にはわかっている」
「あの者は
絶え間なく私を視つめていた。」
「おまえは
その者がおまえを見たことに
我慢ならなかったのだ…
お前のすべてを見通したことに
耐えきれなかったのだ」
「そういう目撃者に私は復讐しようとしたのだ。」
その者は
「私という謎のうちの最良な部分も
また最悪の部分も説き明かした。
私が何者であるかも、
また私がなにをしたかも見抜いた。」
「人間の奥底を、底の底を見たのだ。
人間の隠された恥辱と醜さのすべてを見たのだ。
あの者は、
私の内部の最も穢れたすみずみまで
巧妙に入り込んだのだ。」
「一切を見た神…
その神は死ぬほかなかったのだ…
そんな目撃者が生きていることに、
我慢することはできないのだから」
ーニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」
自己否認である。
ニーチェによると
強い者にとって現実の認識が、
すなわち現実への肯定が、
やむにやまれぬ必然性であるのは、
ちょうど弱い者にとって、
現実にたいする怯懦が、
また現実からの逃避が-つまり理想が-
やむにやまれぬ必然性であるのと、
全く同じである。