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病人レポート12 : 「あれから1年」

再び下界に降りて今日で1年です。あの日と同じように桜が咲き始め、あの日と変わらず生きている、今日。
そんな記念すべき日に、白血病患者さん向けに寄稿させていただいたもののリジェクトされた原稿をドナーさんへの感謝に昇華させるためにこちらに寄せます。白血病との9年の回顧録。
誰が読むんだこんな長文と思いつつも、今日も四角四面の世界で呼吸しづらいと思っている、この空でつながっている方に届けと願いをこめて。
<主治医との向き合い方>
「でも生きられるからいいじゃないですか」2011年5月。急性骨髄性白血病という病気との突然の出会いからほどなくして主治医から言われたこの言葉が、私のその後の生き方を運命付ける契機となりました。
少し前から風邪のような症状が続いていながらも、目の前の仕事に追われていた32歳の初夏。予想だにしていなかった告知と共に、すぐさま自分の人生そのものを捉え直さねばならない状況がそこにはありました。
少なくとも半年以上の入院・治療が必要。予後?分かりません。そこはまだ何とも。。。骨髄移植が必要となる可能性が高いと思ってください。強い抗がん剤・放射線の治療をすることになります。さまざまな副作用が出て来ると思いますが、とにかく一刻も早く治療を始めなくてはなりません。
混乱と動揺の中でもがいている頭の上を、矢継ぎ早に飛ぶ会話。白血病?死ぬのではないか。死ぬ? 32歳で?それは嫌だ。なんで私が。本当に?自然と湧き上がって来るこころの中の問い。そこにゆっくり向き合う間もなく事務的に進められる同意書の説明とサイン。
私自身はもとより、家族一同、さまざまな不安や行き場のない気持ちを抱えたまま、白血病との日々はいつの間にか始まっていました。
フリーランスのデザイナーとして独立・結婚を経て2年。少しずつ自分のペースで仕事が出来るようになり、家庭としても夫婦のカタチが見えて来た頃でした。
35歳までには子どもを一人産んで、40歳の手前でもう一人産めたら良いな。そんな風に漠然と考えていた未来は告知と共に打ち消され、まさに絶望。そもそもこの先、生きられるのか。どんな辛い治療を受けねばならないのか。怖い。やりたくない。しんどい。辛い。帰りたい。。。覚悟のないままに、走り出した列車にただただ「飛び込まされた」感じでした。
1日24時間、10日に及んだ最初の抗がん剤投与が終わる頃、少し冷静になれた頭でまずは必死に「白血病」という病気について調べました。
闘病ブログ・各種論文・SNS、、、貪るように読み耽る中で、恐らく自分と同じ年代であろう女性たちの多くが「子どもを授かることができない未来」を悲観していることを知りました。
この事実は病気の告知以上に私のこころを締め付けるものであり、新たな絶望のタネとなりました。「嘘でしょ。。。」この先子どもを持つことが叶わないとしたら、何のために病気を治すのだろう。私にはもう人生の選択肢を自分で掴み取ることが出来ない。そんな未来嫌だ。なんで。。。どうして。。。
酷い劣等感と自己否定。感染を避けるために閉じ込められている小さな個室の中で、どう頑張っても押さえつけることの出来ない怒りのような感情に押しつぶされそうになりました。誰に、何に向けてか分からない憎しみ。当てどころのないモヤモヤ。。。「もうおしまいだ」。泣いても泣いても湧き上がって来る涙と無力感。井戸の底に沈んだような時間が長く続きました。
しばし間を置いて、ふとしたキッカケで闇雲に「同意させれた」感覚でしかなかった抗がん剤治療に関する同意書を見直しました。
数々並べられている副作用一覧の末尾に「不妊」という文字があることを発見しました。早速主治医に確かめました。不妊というのは、授かりにくくなるということなのか、それとももう授かれないということを意味しているのか。
得た回答は後者の方でした。聞く前からそうであろうと思ってはいながらも、いよいよ現実解として「(子どもが授かれなくなることは)認めざるを得ない未来である」という新たな絶望が生まれました。
一層打ちひしがれている中、主治医が放った言葉は、「同意書にサインいただく際に、ご説明しています。」「(子どもが授かれなくても)でも生きられるからいいじゃないですか」。。。。。
生きられるから良い? ああもう私は「生きる」という、これまで当たり前過ぎて意識すらしてこなかったこと、その「人」としての根源のところから“感謝せねばならない”のだ。「生きられる」ということ以上に、自分の人生に何かを求めてはいけないのだ。絶望や失望といった言葉でこころの穴を埋めようにも、今ある選択肢の中で最善のことをする以外に私が生きる道は無い。病気は悪で、生き延びることが善。生きることこそ価値のあること。とにかく生きならがらえられるのだから、それで十分でしょう?そう言われているように感じました。
病気を治すということにゴールが設定されていた20世紀を過ぎて、いわゆるQOLとか「生き方」というのを一人一人が考えていこうという風潮が社会的にも認知された時代にあって、自分はもはや何がどうあっても「生き続けられる」ということが人生における至福であり、「病気が治ったあと」のことは自分には関係がない。(もしくはそれを考えるのは自分の仕事ではない)という考え方もそこには見え隠れしている気がして、そんな主治医に自分の大切な人生の局面を委ねていて大丈夫なのだろうかとも思いました。
それ以上に、病気を得るまでは少なからず人生の選択は自分が選び取ってきたものである。と思っていたのに、ここから先は自分がこうしたい・こうなりたいというスタンスでいてはダメで、マイナスをゼロの位置に戻すように、まずは生きるという目標に向かって進まねばならないこと。その「生きるのしっぽ」のようなものを一生懸命に自分で掴み続けねばならないこと。今まで生きてきた世界とは切り離された新たな領域の中で、もう一度地に足をつけて立つためにどうしたら良いか考えねばならないこと。それらを同時に求められているようにも感じました。
悩みました。頭では受け止めねばならない現実や状況は理解できる。でも、生身の等身大の自分の感情は、蓋をすれどもすぐに水が溢れ出てしまう。どうしたら良いか。
そんな時出会ったのが「がんになってもママになろう」という趣旨の記事でした。今でこそ多様なメディアが卵子凍結や妊孕性温存に関する情報を提供していますが、2011年当時、それらへ具体的にリーチするのはまだまだ難しい状況でした。
必死になって情報をさらに探し、病床からいくつかの不妊治療クリニックに直接メールを送りました。自分の状況は恐らくかなり特殊であると思われるが、どうにか少しでも未来に希望を持つことが出来るのであれば、やれることは全てやりたい。熱い思いをぶつけました。
この気持ちを拾い上げてくださったクリニックに、1クール目の治療が終わり仮退院が認められたその日に直行しました。卵子保存をするにはまず採卵をせねばならないこと。そして卵子を採取できたら結婚しているので精子と受精させて受精卵として保存した方が良いこと。32歳という年齢からすれば通常10個以上の卵子が採取できるはずだがすでに抗がん剤の治療をしているので0の可能性もあること。何より生理周期と合わせねばならないのでこの仮退院の間にうまくことが運べるか未知数であること。
クリニックの先生は冷静かつ真実的に、でも私の「やれることは全てやりたい」という意思を最大限尊重するカタチで治療計画を立ててくださり、すぐさま採卵に向けてのホルモン治療がはじまりました。
この卵子(受精卵)保存をするということに関して、主治医は渋い表情を浮かべながらも、自己責任の範囲でやるのであればと受諾してくれました。自分の病気がどうなっても1ミリでも可能性があるのであればそれを全うしたい。夫や両親もやはり治療における最良のタイミングを優先した方がという意見でしたが、自分の中の決意は変わりませんでした。
2日から3日に一度、自宅から車で30分以上かかるクリニックに通院せねばならないことは仮退院の身にはとてもしんどいものでしたし、ホルモン治療のみならず、都度内診台に上ったりすること自体が新たな精神的負荷でしたが、子どもを授かる機会を逃したくないという一心で通い続けました。
幸いにして一つではあったものの無事に採卵を終え、受精卵として凍結保存することが叶いました。この0か1かは、私にとって0か100以上に価値を感じることでした。1つの受精卵で妊娠に至る確率は決して高いとは言えないことも分かってはいましたが、「自分で自分の人生(未来)を掴み取る」という、本来あったであろうところへまた少しだけ戻れた気もして、嬉しい気持ちでいっぱいでした。
結果として1週間と約束されていた仮退院は3週間に延長され、病院に戻った際には寛解に入っていた病態が、骨髄中の白血病細胞=20%という数値まで悪化してしまい、再度寛解導入療法という治療を受けねばならなくなりましたが、これからどんな辛い治療を受けることになろうとも、自分にはきちんと未来があると思えるマインドセットのもとでもう一度スタートを切ることが出来ることは、清々しくもありました。
4クールの抗がん剤治療を経て、ありがたくも無事に骨髄バンクからのドナー選定が決まり、骨髄移植日はその年の12月末に設定されました。
2度目の寛解導入も上手く行き、その後の抗がん剤治療で順調に体内の白血病細胞を減らすことが出来ていたと思われていたまさにベストタイミングで骨髄移植が出来る。早ければ来年の春には退院出来るのではないか。期待に胸が膨らみました。
ところがドナーさんとの最終確認のステップの中で無理が生じ、移植は年明け1月に延期されることになりました。その頃には大分この病気について詳しくなっていた主人の助言もあり、それであれば臍帯血移植に切り替えても良いのではないかという旨、家族含めた会議の中で主治医に掛け合いましたが、主治医の判断はあくまで骨髄移植で進めた方が良いということ。今の状態が良いので特に追加の抗がん剤治療をして時を待つのでなく、お正月はゆっくりご家族と。ということで、年末年始は家で過ごすことになりました。
明けて1月。病院に戻った最初の検査で、骨髄中の白血病細胞が40%を超え、とてもこのまま移植が出来る状態ではないことが判明しました。当然移植も延期となり、すぐに新たな、かなり強い抗がん剤治療が1コース追加されました。
それでも寛解には至らず、むしろ私の中の白血病細胞は勢いを増している状態でした。非寛解での移植の予後が良くないことは知っていましたが、これ以上ドナーさんの日程を確保し続けることは難しいなど様々な要件が重なり、2012年3月、遂に骨髄移植が実施されました。
疑心暗鬼の中始まった移植でしたが、思いの外治療は順調に進みました。が、そろそろ退院をという話が出てきたあたりから胃腸の不調を感じて始めていました。明らかに下痢の回数が増えているし、ずっとどこかしらが痛い。本当にこれで退院して大丈夫なのか。主治医に対しての信頼はとっくに薄れていたので、血液内科の部長であった先生にも尋ねましたが、移植後にいろいろ不調が出ることはよくあるので、それらは外来で診ていきましょうということでした。その言葉を信じ、2012年4月、DAY48というかなり好成績な入院期間を経て退院をすることになりました。
悪い予感は当たるもので、家に帰ると日に日に、みるみる状況が悪化し、何も食べられないどころか、トイレへ行くにも匍匐前進のようなスタイルでないと進めないくらい衰弱していきました。ずっとお腹が痛い。しかも何分かに1回激痛に見舞われる。おかしい。明らかに、おかしい。
1週間後と言われていた外来の前に、かなりギリギリの状態で病院に出戻りました。検査の結果は「全身の臓器が浮腫んでいる」ということと「胃や腸の粘膜が剥がれ落ちている」という診断でした。いわゆる重症のGVHDが起きていたのです。
即時再入院。ここからが本当の地獄でした。1日1リットルを越す液体が肛門から流れ出る日々。相当量のモルヒネによる精神の錯乱。ほとんど会話もまともに出来ない。少しは取り戻していたように感じていた「生きる希望」「未来」という言葉の意味すらも、自分では認識出来ない時間でした。
夫や家族、たくさんの友人、そして何よりドナーさんの力がこの世に私を引き戻してくれたのは、再入院から半年を経た2012年の10月でした。
主治医・医療体制への大いなる不信・疑念。全てが後手に回されていることへの憤り。退院してもままならない身体を抱えながらも、ここで得た経験は必ず社会に還元すべきだという思いが自然と立ち上がりました。そしてそれこそが、無償の愛で私にいのちの一片を分け与えてくださったドナーさんへの最良の恩返しになると考えるようになりました。
そのためにはまず転院をして、本当に信頼できる医師と一緒に生活や健康状態を立て直しながら今後のことを考えていきたい。そう思っていた矢先、ご紹介を経て出会ったのが今の主治医でした。
どう治したいかではなく、どう生きたいか。その人それぞれの中の「生きる」を尊重し、そこにまず耳を傾けてくれる新しい主治医との出会いは、まさに人生の中に数回しか起こらないであろう奇跡の一つであり、掛け替えのないものとなりました。
その先生の元、2回の再発を得て、2度目の骨髄移植をしました。本来であれば、初発以上に自分のこころがズタズタになり、立ち上がれないほど力を落としてしまったのではないかと思います。各局面において、正直それが全く起こらなかったわけではないですが、不思議とかなり劣勢な中にあっても、先生の言葉をダイレクトに受け止めることが出来たし、診立ててくれる方針に、素直な気持ちで進んでみようと思えました。
苦境を何度も共にしてきた私の中に流れるドナーさんにお別れを告げて、新しいドナーさんを迎え入れねばならないことは遺憾の極みでしたが、「今、再度移植をすることでこの病気を乗り越えていくことができる、そう信じている」という先生の言葉は、その迷いを払拭してくれました。
とはいえ初回の移植後が地獄絵図であっただけに、容易に受け入れられる提案でないことも事実でした。「よしやろう」と思うまでに相当もがき、苦しみ、何度も何度も同じ問いを先生に投げかけ、何度も何度もその答えを反芻しては吐き出すということを繰り返しました。
「今はさらにいろいろと良い薬も出てきているし、大丈夫。出来る。」最後の最後、先生が強い気持ちを持って掛けてくれたこの言葉が、私の背中を押し切りました。そうして無事に、こころあるドナーさんのお力を借りて、2 度目の骨髄移植を得ることが出来ました。
適切な先生の読みと勘。それを下支えする膨大な知識と経験・修練のアーカイブのおかげで、甚大なGVHDを引き起こすことなく、移植から2ヶ月で無事に退院することもできました。
医師と患者との出会いはセレンディピティで、名医だ権威だと言ったところで結局お互いにこころが通い会えなかったら疑惑が残ったり、ただただ日々の辛い治療をこなすだけに終始してしまうと思います。
特にがんの中でも、血液に関わるものは治療期間が長い。もちろん基本方針としては「長く生きられる道」をお互いに探っていくことになるわけですが、目の前の「わるいもの」を退治することが全てではない。病気が治れば全て良しではなく、そのプロセスも大事。
病気を全ての中心に据えてしまうと、その中で取れる選択肢は自ずと限られていきます。でもその一見限られたものの中に、どれだけ自分で新しい選択肢を見つけることが出来るか。その発想の切り替えが出来るか。それは主治医との堅い絆や信頼関係の上に始めて成り立つものではないかと感じます。
「先生」「患者」という枠組みを超えて、一人の人間同士の関係の中で、突きつけられた人生の課題をどう解いていくか。その人なりの納得感を持ってその先も生きていくにはどうしたら良いか。
医療の中にもAIやあらゆるテクノロジーが導入されていっている昨今。医療的に「正しい」ことだけをやっていれば間違いがないとか、本当の意味で患者さんの気持ちに寄り添っていけない医療従事者は淘汰されてしまうのではないかとつくづく感じます。
医師である、患者である前に、人間。その道のりのどこかで病に出くわしたとして、検査の数値やカテゴライズされた「ステージ」というのがその人を現す全てではない。どんな時も自分で未来を生み出していくことは出来るし、どこからでも人は新しいその人を生きることが出来る。どんどん変わっていくことが出来る。
人として向き合える「主治医」との出会いを通じて、人生においてとても大切な気づきを得られたことを含め、ある種禅問答のような私の中のモヤモヤにいつも正面から向き合ってくれ、寄り添ってくれる今の先生には本当に感謝しています。
写真は2019年3月22日の夜明けの空