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病人レポート2 : 自分で自分を生きやすくする
〜死を考える練習についての考察〜
先日「安らかで楽な死」というイベント(http://www.kouganji.net/blog/2018/07/post-106.html)にご縁いただき参加して来ました。
そして”生き方の多様性”がこれだけ問われる時代なのであれば、”死に方の多様性”だってもっと語られるべきじゃないか、ということへの思いが一層強くなりました。
「死」の解像度が高まり、距離感がググッと近づいて来ると、、、
・治療はどうする問題(or 治療法がもうない問題)
・今後やってくる痛みに対してどう対症する問題
※痛みは冷静な判断を奪い「こんなに痛いのを我慢せなばらないなら今すぐ死にたい」という、とても逼迫した極端な思考に直結しやすいので特に注意が必要です。
・その時が来たら延命はする、しない問題
・子供は?仕事は?家族は?問題
・何をすべき、何ができる問題
・やりきった、やり切ってない問題
・後悔する、しない問題
・(若年の場合特に)親より先に死んではいけない問題
・家族や大切な人に悲しんでもらいたくない問題
・私の死は誰のもの?問題…..etc etc…..
当事者のみならず、家族、それを取り囲む人たちの中に、ざっと並べただけでもこれくらいの問題が立ちはだかるのではないかと思います。実際イベントでもそういった論点が並びました。
「生」の文脈で考えたとしても割と迷宮入りしやすく、仮にも答えを導き出すのが難しいものだらけです。しかもこれらが互いに絡み合うと、時にことの本質をややこしく、複雑なものに変える破壊力を持つし、手段と方法と感情、それぞれ性質の異なる多岐にわたる課題を「医療」や「社会制度・システム」の枠組みだけで捉えようとすると、少し無理が出て来てしまうと感じます。
安心安全便利な都市に暮らすというのは、身体性を失くして生きることだと私は考えています。死が生の前提であるという緊張した感覚を持つことは難しい。
少し時代を遡ると、四条河原町にはさらし首が並び、飢饉や戦が起きれば夥しい数の死体が日常の中にゴロゴロありました。だから敢えて「死」を考えなくても、目から耳からにおいから、死ぬとは何か。生きてるってなにか。あの人が死んで自分が生き延びた意味は何か。そう考える題材が日常の中にあったと思います。死との距離はそういうもの、とても自然のことだったのです。
ところが現代、とりわけ都市の暮らしの中では、自分にとって都合の良くないもの、病気は悪、憎むべき存在、健康や長生きこそ善ってなっているのではないかと感じます。だから “闘” 病。病や死や苦はなるべく遠ざけたい、向き合いたくない、先生にお任せしたい。。。
さらによろしくないのは、その思考のプロセスに、圧倒的な二項対立が突如として、出現してきがちなことです。それが当事者にも家族にも、大きな心理的バイアスをかけてしまいます。
例えば、、「治療法がない」の反対は「治らない」「治らない」の反対は「死?」、、、、、普段生きている中で、そんな強烈な対比や「何%」といった数値で皆、物事を判断していないはずなのに。一種異様なテンションで、このことに向き合わ「ねば」ならないような雰囲気に陥ってしまいがちなんじゃないかと思うのです。私も今回の再発を受けて、その底なし沼のような強いものに引っ張られ、どう脱出したら良いのか分からない時間が長く続きました。
だから「死を考える練習が必要」と私は思っています。自分ごとの時はもちろん、誰かしらの死に接した時でも良い。ガガガっと高まる緊張と温度を下げて、もっとフラットに話し合える方法と機会を日常の中に持つことの大切さを思います。
やわらかい死(生)のバリエーション、もっとフワフワして、どっちつかず、ダメダメ、ヨワヨワ、グダグダ、、そういう「曖昧な世界」をこの議論の中に織り交ぜていくのも、今ある「死のタブー」を切り崩して語り合う時の鍵になると思っています。
渦中にある人は特に :
・「わからない」「決められない」「決めたくない」「そのどれでもない」「体の良い言葉で無理やりまとめない」そうやって優柔不断に議論を宙に浮かせてみる。
・「本当に今、目の前にある選択肢だけか?」とこだわってみる。疑ってみる。
・「死にたくないし!」ダダをこねてみる。
・「うーん、でもそれってあなたの価値観だし」自分に向かって来るボールを打ち返してみる。
・「なんかいける気がする!」奇跡を引き寄せてみる。
・「死ぬ」「生きる」に対してヘリクツを言ってみる。
・時々全部を投げ出してみる。
・自暴自棄になるだけなってみる。
・医療的に与えられる選択肢ばかりを見つめない。それが全てだと思わない。…..etc etc…..
そうやって「死」をこねくり回し始めると、そこからの反作用で強烈な「生」のエネルギーが生まれてくると私は考えています。とにかくたっぷり時間をかけて、いっそ「死」と真正面から、目を逸らさずトコトン向かい合ってみる。死を考えることは生を考えること。私にとってのその在り方の一つが「川の流れにのる」(病人レポート1)でした。
何が ”自分らしい” 死か。生か。答えなんてないし誰にも決められない。だけどそういう迷い、不安、恐怖、非日常を感じて生きることこそが人生なのだ!それでいいのだ!
強いて言えば、自分が生きやすい、息苦しくない。そういう方法がちょっと見えた時、それが「答え」なのだ!と私は実体験を通して考えています。
死を囲む空気を変えたい。違う流れを生み出したい。「ものづくり」っていうクリエイティビティを使って、何か新しい死の風景を日常に作りたい。最近はそんなことも考えています。
強い人なんていない。でも皆、生きる、生き抜くための底力を持っている。どんな人も。自分の中で死を考えることで、自分が生きやすい道が見えて来ると私は信じています。
2018年7月20日
(今後の予定)
入院日は7 / 23 日(月)に決まりました。この旅で見える風景を、引き続き紡いでいきたいと思います。
(ちょっと「死」っていうやつを考えてみよう、そんな方にオススメの図書)
「自分は死なないと思っているヒトへー知の毒ー」養老孟司著