ライターになるには「好き」が足りない、と思っていた。
実はたぶん、小さい頃から何をするにも自信がなかった。他人からはそうは見えていなかったのかもしれないが、細かく振り返ってみると、自分ではそう感じる。
「親がちょっと変わった職業だったから」というのを言い訳にしていたのだが、何かをしようとしたり考えたことを口に出そうとすると、周りの「暗黙の了解」とはズレていることが度々あると感じていた。かといって、一般社会の中で全く生きていけないかというとそんなこともなく。
いっそ、ズレまくっていたら面白い人間になれそうなのだけれど、「普通」といえば「普通」だし、「ズレている」といえば「ズレている」。自分はそんな、宇宙人と地球人の”アイノコ”みたいな、どっち付かずな人間な感じがしていた。
例えば、「好き」と思うものがあっても、周りの人たちが言う「好き」とはなんだか違う気がする。私の「好き」はいつも冷めやすくて、浅はかで、みんなが色々なものに向けている情熱たっぷりで持続性のある「好き」とはどうやら違うようだった。
「書くことをする人になりたいなあ」とは、思っていて、子供の私はそれを「小説家」と呼んでいた。しかし私は”本の虫”と呼べるほど本が好きではない。「学校の図書室の本を全部読んだ」と言う人や、シリーズものの次回作を心待ちにしている友達を目の前にすると怖気付くし、『指輪物語』も『ハリー・ポッター』も途中で挫折した。書くこともそこそこ好きなのかもしれないが、毎日何かを書くほどでもないし、だいいち何をどう書いたら良いか、よく分からなかった。
月日は流れ、40歳を前に私は「バトンズの学校」で、書くことの手がかりを知る機会を得た。私には勿体無いほどの先生や友達と出会い、そして何より、少し世界が広がったことで、私の「好き」はそれなりに「好き」に値するのだろうことも分かった。私より「好き」の度合いが高い人は無限にいるだろうけれど、私は私なりに、読むことも書くことも「好き」なのだと思う。その自分の気持ちを、認めてあげても良いのだと思った。
そして、書くことを学びはじめてからも、「自分はならないであろう」と思っていたライター。しかし今私は、ライターになりたいのだと思う。「小説家」や「エッセイスト」といった名称に限定することはない。色々なものを見て、考えて、書きたい。ライターの定義を恩師が広げてくれたから、「私がなりたいのはライターなのだ」と思える。1年以上前に教わったことに、今になってじわじわと助けられている。まったく、人生ってよく分からないものだ。