「観る」は読むでもあるし、現すことでもある
1カ月ほど前、メッシュワークさん ( https://meshwork.jp/ ) が開催した「日常と出会いなおすためのレッスン (1)観る」に参加した。
普段、仕事の一環でリサーチ/質的調査なども広く実施するが、対象となる事柄や人々に向き合うに連れ、「見方の枠」のようなものが作られ、自分なりに効率化しようとしている片鱗が見えてきて、シンプルに嫌だなあと思ったのでというのが参加理由。
プログラムでは「参与観察*」を用いた人類学的アプローチを実践した。タイトルでほぼ結論を言ってしまったかなとは思うけれど、自分にとっての「観る」をもう一度見直す機会をもらったので、今回はそこで感じたことを改めてまとめてみようと思う。
観る=読むこと
まず一つ感じたのは、「観ることは読むこと」だった。その場が持つ空気や流れ、文脈を参加することを通じて自分の視点を通じて読むこと。目に見えない何かを読んで、感じることではないか?
観るの意味をいくつか調べてみると、その多くが「見る」との違いを「意識を向けて視覚に入れる」のニュアンスを持っていることだと気づく。
実際プログラムを実施したときも、5名ほど集まった、普段やっていることも共通点がほぼない参加者みなさんのそれぞれの視点を通じて、ほぼ毎日無意識に行っているとても身近な体験をテーマに個々人の意識の違いを「読む」ことができた。
それぞれが何を読もう(観よう)としに行っているのかは、全く違った。(ひどく当たり前のことではあるが)自分の観ているものと、他の人の観ているものは違うということや、タイミングの偶然性もあり、そこには多様性が溢れていることを感じた。
現段階ではなぜそうなるのかという背景の理解と、多様さを活かすための方法論を持っていないが、それをわかりやすさに落とし込まず、そのまま活かす方法はないのか?みたいなことは考えていきたい。
観る=現すこと
もう一つ重要な要素は「可視化すること」であったと思う。
これもプログラムの中では「文章で現すこと」として組み込まれていたが、読むだけでなく、言語やその他を通じたメディアを利用して現すことで「周囲に伝わるものになる」というひどく当たり前のことではあるが、それをメディアをどう選びどう行うかは、最適なものを選ぶ必要があるのだと感じた。
写真や言語、言語と言っても箇条書きで現すのか文章、で現すのか、その文体はどんなテンションで書くのかなどなどなど。
普段やっているような、モデレーターと対象者・対象行為のような、客観的な立場に身をおいて観察するなら、見えたこと・聞いたことを淡々と書くことも多いのだけど、自らも体験して、一つの包含された研究体・場となっている中で、果たしてどんなテンションで書くか。
事実(ファクト)を現すだけではない、自分の感情も混ぜるものであった方が、その場がリアルに見えてくるのかもしれないし、それだと自分はわかるけど人にはわからない弊害も発生するのか?等、悩みが付きないし、好奇心をくすぐられるポイントでもあった。
場の媒介者というよりも1人の著者になったような感覚でものを観て、表現するのかもしれないと感じた。
自身の「観ること」のこの先
見方が変わったなという感覚だけが1ヶ月経った今でも残っている。
それとともに、参与観察という手法で何が見られるか、どう表現できるか、それは他の人とどう違うのか、想像して勝手にワクワクしているところもあるので、友人たちと同じようなやり方で学びを深めていっている最中だったりもする。
最後にテキストになった書籍を張っておきつつ、この独白とも言えない、もにょもにょしたnoteを終わりにしたいと思う。