今日の一言!『結果への操作願望を捨てて純粋に行為する』
「物事をやり遂げたいなら、失敗する恐怖も、成功への願望も傍に置いとかなきゃいけない。どちらも結果への強い欲望であり、そういった欲望のない行為こそが、行為として最も純粋だからだ。」(拙訳)
アラン・ムーアさんという、コミックの原作で有名なイギリスの作家さんの言葉です。
今朝、偶然見つけてハッとしました。
精神を如何に制御し、心を如何に鏡のように静かにさせるかについては、昨今、禅やマインドフルネスやと取り沙汰されています。
しかし、ムーアさんの言葉は、制御するというわけでもない。
不安も願望も「脇に置いておけ」と言います。目標を打ち立てたら、即座にその目標に対した時に生じる意識や感情を捨て、純粋に「行為」することに集中する。そうすることにより、行為そのものの純度が高まる。
どんなことがどう実現していくかは誰にも分からない。
「こうしたい」「ああしたい」とか「失敗したらどうしよう」と右往左往したとしても、どのみち結果は誰にもわからないもの。
ならば、意識のコントロール下にない、純粋な行為の方が圧倒的に力がある。それは人を惹きつけもするでしょうし、変化をもたらしもするでしょう。
対人関係にも
他者に対する態度にも、同じことが言えると思います。
相手の期待に添えるようにしようとか、役に立つことをしたいということは、人間の共存を支えてきた重要な欲求ではないかと思います。しかし一方で、相手に認められることを期待するなど、相手によりかかる行為にすり替わっていることが往々にしてあります。
結果、相手に過剰に負担をかけ、自立の機会を損なっているとすれば、お互い不幸になるし、割とすぐに関係性が破綻する、もしくはどちらかが我慢しなければならない一方的な関係に陥る可能性が高くなるでしょう。
そうなれば、うまくは事が運ばないということになりますね。
ここで「純粋なる行為」で、相手を恐れず、かといって期待しない関係性で事に当たれば、何か新しいことが動き出すかもしれません。
純粋な行為を型稽古する日本文化
ある意味日本の技芸は、そのような「純粋な行為」を稽古する場として機能してきたのかも知れません。茶道の「一座建立」という言葉が、そのことをよく表していると思います。
能では、演者の人間臭さが消えることが最高の技とされると聞いたことがあります。
その時演者は、能の型にしっかりとはまり、「うまく演じよう」とか「失敗したらどうしよう」といった欲が消えているはずです。
連句では、文字数や季語、輪廻の忌避など様々な決まりごとがありつつ、その型の中で句を付け合い、三十六句出揃った時の感覚を味わいます。
上手い下手はあるにせよ、基本的には即興で、出てきたものを付け合う。
型にきちんとはまっていれば、最後、挙句で出てきた句に、三十六句全体のよさが浮かび上がってくる。(ちなみに「付き合い」は連句の「付け合い」が由来だそうです)
それは誰か一人で作る芸術ではなく、その場にいる皆の力であり、場の力でもある。
一人一人が純粋な行為であればあるほど、連句としての力強さも生まれる。
このように、あらゆる技芸において、作為や操作願望を如何にして捨てて、如何にして行為としての純粋さを保つか、ということを型稽古の中で育んできたのが日本文化の真骨頂ではないかと思います。
日常の中での純粋な行為の保ち方
そう考えると、日常生活の中で、「どっちでもいいよ」と思うことは、案外大切なのかもしれません。
なんだか無責任にも聞こえるかもしれませんが、目標はしっかりと立てながらも、それに向かう態度としては「うまくいこうがいくまいが、どっちでもいい」と、あえてフラットにしておくことで、行為の純粋さを保つ。
むしろそういったことが、心を鏡のように静かに落ち着かせるのに役立つように思います。「どうしよう!」と思った時に、その場で座禅を組むわけにもいきませんから(笑)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?