お土産文化から「もの言わぬ」を考える
2019年から、オーストラリアで留学している長女。
コロナ禍を経て、ようやく遊びに行けることになりました。
いつもお世話になっているホストマザーさんやお友達に、何を買っていったら喜ぶだろうか、と、あれやこれやと悩んでいたのですが、
長女から「いや、そんなに気を遣わなくていいよ。こっちはお土産文化ないから」とあっさり出鼻を挫かれてしまいました。
でも、お世話になってるから、こんな時にこそ何か気の利いたものを…とちょっと強めに押してみたんですが、「じゃあ、ご飯でも作ってあげたらいいんじゃない?」という感じで…。
モノに想いを込めたい日本人
考えてみれば、日本人って確かにお土産や贈り物をする機会が多いですよね。
相手の喜ぶ顔を見たいとか、律儀であるという以前に何か「モノ」に「想い」を込めたい、もっと言えば、言葉という目に見えないもので気持ちを表現するには足りない、形のある「印」が欲しい…という衝動のようなものがあるのかもしれません。
他にも例を挙げてみましょう。
例えば、レコード。
今でこそ世界中で再び購入できるようになりましたが、CDが生まれてから一時はどこにもレコードが見られなくなり、海外の若い人の中には「現物を見たことない」という人もいました。
でもそんな状況下でも日本には、レコードは一定数ありました。
中古レコード屋にいけば、隅っこの方にレコードが必ず置いてあったし、リサイクルショップにもダンボールに無造作に放り込まれておいてありました。
多くの外国人は、渋谷の音楽ショップでレコードが大量に置いてあるのを見てびっくりしたんだそうです。
例えば、現金でやり取りする頻度の高さにも目につきます。
今だに日本中で、現金しか取り扱ってないお店や電車の路線ってありますよね。
中国の友人なんかは、「銀行振込のやり方がわからない」といっているくらい、とにかくキャッシュレス化が著しい。
だから外国人が来日したらさぞかし不便だろうな、と思います。
ちなみに、当然ですが、オーストラリアでもほぼキャッシュレスだから、換金しなくていいとのことでした。
キャッシュレス化があまりに進まないのは、行政はじめ日本の各機関の怠慢だろうかと思っていたら、どうもそれだけではなさそう。
実は大学生の末っ子も現金派。
「お金が目に見えないカードで支払うのはなんだか不安がある」といいます。
「いふ」の文化
このような「モノ」への執着は、翻って言えば、大切なことは口に出して言うことをよしとしない文化があるのではないか──。
だから古来、態度で示してみたり、和歌で示してみたり、贈り物をしたりして、大事なことを伝える言葉を、形あるものへ転換してきたのではないか。
そんなふうにも思えました。
こういう時は、原義をあたってみるに限ると思い、本棚にある白川静の『字訓』を開いてみました。いつかは役に立つ時がくると思って買ったものの、結局ネットの辞書に頼りっぱなしで出番がなかった代物です。
「いふ」は告げ知らせる、一般的にそのように言われているという意味があるそうです。詳しくはこちら。
『字訓』を見ると、大事なことを口に出して言うことを「よしとしない」のではなく、言葉に表していうこと自体が、神に誓うことで、「ものいふ」は霊異のあらわれだったとあります。
となると実は、余程のことでない限り、口に出して言えるものではなかったのかもしれません。
「言霊」といいますが、「いふ」行為自体が、行動そのものよりも、天地を左右するくらい大きな影響力を持つ場合もあったかもしれず、古の日本人は、物に託したり、和歌に託したりしながら、上手に切り抜けていたとも推測されます。
そういった「いふ」への畏怖が長く根付いていくうちに、贈り物を好んだり、形のあるものをやたらとありがたがる文化に転化していったのかもしれません。
すると、日本人がいまだに「愛してる」を口に出しづらいのは、照れ臭さとか、思い切りのなさではなく、実はそういった「いふ」の文化がいまだに息づいているから、とも考えられるのではないでしょうか。
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オーストラリアへのお土産から随分話が逸れました。
お土産より何より、オーストラリアでは「口に出して感謝の気持ちを表す」ことがいちばんよさそうなので、まずは錆びついている英会話をどうにかすることを最優先にしようと考えを改めました(笑)
そして、辞書はやはり紙の方が立体的な見方を得られるような気がして、これ以上本棚の肥やしにしないで、ちゃんと紐解く習慣を作ろうと心に誓ったのでした。