病気のこと、その後のこと2

まだ、その1をお読みでない方はこちらからどうぞ。卵巣嚢腫が見つかって手術を終えたあたりまで書いています。

その後何が起こったか

最初は安堵でした。病気があるのを知ってからずっと爆弾抱えているようなものでしたから。爆発したりねじれたりしたら緊急手術だろうし。だから運動もできなかったし、あまりたくさん移動するのも怖かった。ひたすら穏便に日々を過ごしていたので、手術が終わったら「全部出来る!」となったのは凄く嬉しかったです。

次にじわじわ来たのは不安ですかね。理由が分からず、再発も比較的多いと言われる病気です。次は右の卵巣やられちゃうのかな。ってことは、「全部出来る!」じゃなくて、ずっと気にかけてなくちゃいけないの?ってそんな感じでした。

それから罪悪感。生まれ持ったものを失わずに最後まで生きたかった。それができなかったのは自分のどこかが間違っていたからだろうとおもいました。エネルギーの世界でも生まれ持ったものを失わずにもっていて当たり前。完全形でいられるという考え(風潮?)があります。
だから、臓器を取っちゃったりすればエネルギーが変わったり減ったりするんじゃないかと。そしてそれを招いたのは自分自身だなと。だから自分にごめんなさい。失ってしまった臓器にごめんなさいって気分でした。

特に私は小さい頃から女性より男性と一緒に行動することが多く、周りも「男だったら良かったのに」と公言する人が多かったんです。親も男の子であったらなあという気分で私を育てていましたから。トランスジェンダーではないけれど、自分の女性としての存在をあまり大事にしてこれなかったという意識がありました。だから、私の女性性に対してもごめんなさい。ちゃんと女性に生まれてきたことを大事にできていなかった、と思いました。

そして不完全感。足りない感というか。別にそこまで左の卵巣を酷使していたつもりはありませんが、ないということの意味の大きさに、欠損感が強くなりました。卵巣がないからといって普通障害者とは呼ばないけれど、手足がうまく動かない人などとどこが違うのか自分でよく分からなくなりました。欠落しているのに、欠落者としての扱いを受けることはない。これって何だろうって感じたんです。

これらの感情に正面から向き合ってみた

そして、こういった一挙に押し寄せてきたいろいろな感情と今回はがっぷり四つに組み合って、しっかり眺めてみたい、と思いました。

私は化石を溶かして愛に還すセッションをしています。こういった感情を化石としてセルフセッションすれば溶けていくのは分かっていました。でもしたくない。

実は、感情をじっくり味わい尽くす方法は大きく2つあります。一つは正面から向き合い、のたうちまわり、苦しみ抜いて、最後自分が勝手に浮上するまでどっぷり浸かる方法。もう1つが、化石として扱い、からめ手というかショートカットみたいな方法で感情に向き合い、形を変えていく方法。

どちらも感情を味わい尽くす方法で、そうしない限り自分の中では永遠に残っていってしまうものです。

そして私は今回前者ののたうちまわる方を選びました。そうしなければ自分が抱えているものをちゃんと見ることができない気がしたんです。

ないものはない

結果、1週間ぐらい本当に七転八倒した結果、ひゅっと自分の中で新たなものが生まれました。

でも、ないものはないじゃん。考えても無駄。

そりゃそうだ。そんなこと分かってる。
でも本当に分かってたら落ちなかったよな。
腑に落ちてなかったから、落ちたんだな。

ないものをねだっても後悔しても、戻りはしない。
じゃ、ここから先、ない自分をどうやって先に連れていくのか。
ない自分はどうやって前に進むのか。

それは「ない」と心の底から思い知るしかないな。

ない。だからどうした。

これが私がのたうちまわった果てに得た結論です。

実際には、先に味わった感情の原因や答えなど1つも見つけていません。でも「ないもんはないんだ」と腹を括ることによって、覚悟が生まれたと思います。

そして、「ない」ものを抱えた人たちに対して、ずっと昔から自分が抱いていた親近感や共感を改めて自分の中に抱くことになったんです。

不完全・マイノリティへの回帰

物理的に何かがない(お金がない、も含まれますよね)だけじゃなくて、感情的、状況的に何かが足りない。だからこそ、一生懸命に他で頑張ったり、他の「ない」人に寄り添ったり、そんなことができるんじゃないのかな。

そして、何かが欠損している「ない」人だけじゃなく、世間的に「何かがないと捉えられている人」=マイノリティも同じかなと感じるのです。

男性に比べて女性は「力や才能がない」(一般的に思われている可能性のあることの一部を例として取り上げているだけです事実かどうかは別)、大人に比べて子供は「知恵がない」、フランス語話者に比べてフランス語話者じゃない人は「フランス語能力がない」、、などなど、枚挙にいとまがありません。

つまり、どこかに見えない「当たり前の基準」があって、それに比べて何かがない。それって単なる物の見方の違いでしかないようなものが、差別や区別の奥底に眠っている気がするのです。

そこで「ないから、どうした。」と開き直ることで、逆転できる。だって、もってる人は、もってるのが当たり前だったから、その理由も、ありがたさも感じず、ただ受け入れて、開き直ることさえしなくてよい訳です。もってない人は苦しみ悩み頑張って、やっとの思いで開き直れるのだから、開き直ったら強い。

自分がないことを受け入れる

そして「自分の中に何かがない」を受け入れると、自分に対する執着が減ってくるなあと感じました。あれがなくても自分、これがなくても自分。なら全部なくても自分。もう何もなくても自分はそこに存在できるということが分かってきちゃうんですね。

もとより手術を経て「なくした」人です。手術なんて、普通に生きているよりは「死」にすごく近い場所。ここから戻ってきた私は、ある種の諦観にたどり着いた気がします。

幸せに死ぬために私にできること

今までずっと死にたいと思っていたけど、それは自分が「死」から凄く遠い場所にいると思っていたから。今、私は以前よりずっと「死」に近い場所にいて、放っておけば確実に死に至る。じゃ死のうとか頑張らなくても、そのうち死ねる。そこにエネルギーを傾けなくてもいい。

今まで私が何かを成し遂げたいと思っていたけど、そんなに「死」に近い場所にいる人が何かを成し遂げられたとしてもタカが知れてる。それなら、もっと「死」から凄く遠い場所にいる人に渡していきたい。それは夢を託すというような押しつけがましい渡し方じゃなくて、私の知っていることは渡すから、あなたなりに膨らまして変化させて、あなたなりの形に変えてくれればいい。

それこそが、私が幸せに死ぬために今できることなんじゃないかな。

そんな風に思ったんです。

これは、大好きな藤井風君が言っていたことなのですが、幸せに死ぬためにできることをずっと考えている、と。で、私ははっとして、ずっと考えていたんです。幸せに死ぬために私ができること。そして、私はこう思った。

私が今までに得たものを渡して、それが色んな色の花を咲かせる世界の種を蒔こう。

だから終活ではなく修活をすることにしたんです。

修活とは、自分学を修めること

本当の自分を知ろう。ありのままの自分でいよう。今の自分を変えよう。巷にはいろんな言葉で自分を振り返るスローガンが溢れています。

でも私は尋ねたい。

本当の自分、ありのままの自分、今の自分をあなたはどれだけ知っていますか?よく知りもしないのに、変えるとか、そのままでいいとか、言えなくないですか?

私は、毒親育ちですから、15歳ぐらいですでに「自分て何だろう?」と思い始めていました。18歳には臨床心理学の本を山ほど読んでいました。カウンセリングも精神科も通ったし、普通の人よりはよほど自分を掘り下げるための活動をしてきたつもりです。

それでも今自分のことなど、全体の5%ぐらいしか知らない、と思います。

こんな時嬉しい。こんな時悲しい。これが好き。これが嫌い。

たまたま知るチャンスがあった、ほんのひとかけらのことだけ私は知っていると感じます。後はでかいブラックボックスが目の前にあるだけ。

なので、もっと自分を知れば、変わりたいのか変わりたくないのか、分かってくるんじゃないかなと思うのです。

多分私たちは、あらゆる経験や失敗などを重ねても、ある意味「変わる」し「変わらない」のだとも思うのです。

本当の自分は変わってないし、変わらない ただ強弱がついただけ

私たちはまったく歪みのない自分自身のキャラを両手いっぱい抱えて生まれてきているはずです。でもその後、親兄弟の言葉、世間体、いろんな経験、教育といったものを経て「こうしたらダメなんだな」と学習していきます。この学習は自分なりの価値観や処世術を作り上げ、より生きやすくするために、生まれ持った本来のキャラの一部の機能を弱めて、生きやすくしていきます。

でも、本来のキャラの一部が弱くなれば、逆に強くなることでカバーしてくるキャラもある訳です。例えば目が見えない方は聴覚など他の感覚が強くなるのと同じような感じで。

そうして、本来のキャラの1つ1つが生まれた時全部5,5,5,5,5という強さだったとしたら、価値観や処世術で弱めたキャラは2,2,2となり、逆に強くなって他をカバーすることにしたキャラは、8,8となる。

そうすれば、22288という人ができあがる訳ですが、もはや55555の人とは別人に見えてしまうかもしれません。

その根底にあった、自分なりの価値観や処世術を少しずつほぐしてあげれば、過度に弱める必要のあるキャラも、逆に強くしなくちゃいけないキャラもなくなります。だから自然と55555に近く、戻っていくのです。

だから、何が起こったとしても根底から洗脳を受けるみたいな変わり方はしないし、何の制限もなく伸び伸び過ごせるようになれば戻っていけるもの、それが本来の自分なのじゃないかな。

だからこそ、大前提として本来の自分を1つでも多く知っておきたい。そのための、修活。人生を終わらせるための準備じゃなくて、自分学を修め自分のやること・やったこと・やろうとしていることをちゃんと認識しながら人生をしっかり踏みしめていくための活動=修活をこれからお勧めしていきたいと思います。

なんか気になるなと思った方、修活についてはこれから少しずつ書いて行きますのでお楽しみに💓

どうもありがとう



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無為自然 凪の音 風の放浪詩人 ともこ
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