見出し画像

草熱とドローン

草熱(くさいきれ)という言葉は,生い茂った草が日光に照りつけられて発する熱気と匂いのこと指すそうだ.福島のキウイ農園に帰ると,この草熱を感じる.この匂いが.なぜ自分がここ数年福島でキウイ栽培に関わっているか考えるきっかけになりそうだと思い巡らした.

 なぜこのことについて考えねばならないかというと,未踏成果報告会という極めて世俗的な目的で,自分のここ3,4年の行動姿勢について言語化する必要が有るからである.もとより未踏成果報告会というのは具体的な目的でしかなく,この作業は自分にとってもっと抽象的な意味もある.それは今まで意識下にあった自分の行動姿勢を恥ずかしげもなく言語化することで,これからの自分の軸に足る説明を探し,自分にとっての価値基準(つまり,何を信じたいか.どうやって生きていきたいか)を定めておきたいということだ.

3年ほど前から,福島県大熊町で友人とキウイ栽培を行っている.自分は理系大学院生なので生活圏はもっぱら神奈川であるが,友人たちは既に福島に移り住んでキウイと共に大熊で生きることを決めた.
自分が福島で友人のキウイ栽培を手伝っている理由は,そこを自分の棲家にしたいからだ.いわゆる共同体や満足な血統的連続性を感じることなく生きてきた自分にとって,福島という土地や,そこに集まる同世代のコミュニティはひどく魅力的だった.

苗植えの際に撮った集合写真

 それに加えて,僕が幼馴染に誘われて福島に縁を持ち始めた2,3年前はちょうどMidjourneyがリリースされた時期でもある.当時はTwitterの人たちと同じように,予期されるAIの発展に衝撃を受け,ひとしきりソースコードを触っては感動していた.ある種の知能労働が今後数年単位でAIに置き換わることから,人間に求められる生き方も変わらざるを得ないことは多かれ少なかれはっきりしていた.そんななかで自分が幼馴染の誘いに乗ったのは,地方の片田舎で若者が同朋と共同体を作り,人のつながりの中で生きていくことが技術進化によって変わりゆく社会の中で何か重要な価値を生むのではないかと感じたからでもあった.

 福島という土地も自分にとってはベストだった.福島に初めて来た時に,友人に案内されるがまま大熊町や浪江の廃墟(今はもうほとんど撤去されてしまったらしい)を回った.ガラスの割れた異臭のするコンビニに入ると,崩れ落ちた棚から拾い上げた雑誌の日付がすべて3月11日だったときの気持ちは多分一生忘れない気がする.ここで感じた気持ちは,誤解を恐れずに言うと興奮に近かった.小さい頃から廃墟系のSFに憧れていたせいが大きいのだが,もっと重厚感のある興奮もあった.それは自分の生きてきたくだらない文脈から離れて,価値のあるイシューを見つけた喜びであって,これが福島に関わっていこうという一つの原動力になった.

獣の糞で異臭のするコンビニ

 これはカズオイシグロだったかヘミングウェイのあとがきだったか忘れたのだが,アメリカとイギリスに文学的隔たりがあり,イギリス文学と日本文学が似ている理由は,イギリス人の血統的連続性から離れて未踏の地に空間的つながりを求めた人々がアメリカ大陸に入植してアメリカ人になったかららしい.新たな土地で仲間と新しい共同体を作りたいという気持ちはどの時代も変わらないのかもしれないが,福島という土地は自分にとって極めて日本的未踏の地であるように思えて,いいじゃないかとなったのである.

 そういったわけで福島に度々泊まり込んでは農作業をしたり企画の手伝いをしたりするようになったのだが,客観的に見ても変なことをしている自覚はある.まず,福島で新しく農業を始めることの複雑性については話始めるとキリがないのだが,大熊は元々全域が帰還困難区域だった場所で,この地域にあった農園,果樹園は除染のためにすべて表土ごと伐採,抜根されている.その他色々な事情も相まって,安定な農業就農を志向して福島で農業を始める人は少ない.

※(この文章ではあえてこの複雑性には深入りしない.それは,自分の語りたい未来への文脈が固定化された過去の文脈に組み込まれてしまうことを避けるためだ.この内容も含めた背景は幼馴染のyoutube動画に任せることにする.よそ者が福島で好き勝手し自分の文脈に組み込むことのことについての問題も当事者として十分に自覚し, 配慮していることも付け加えておく. )

中間貯蔵施設へ除染土を運ぶトラック

 この幼馴染は自分と同じ大学の法学部政治学科.農園の発起人であるもう一人の友人も国立大学の情報工学専攻である.本来農業と関わりのない若者が福島でキウイ栽培をはじめてしまった偶然性たるや素晴らしい.それぞれが自分なりの文脈と意志をもって福島に集まったことは言うまでもないが,僕たちに限らず大熊の仲間たちがこの場所を離れないのは,ここに他の土地にはない重要な匂いがあるからだ.この文章を通してそれが伝わると嬉しい.

 とにかく何人かの(ちょっとは優秀な)若者が福島という未踏の地で21世紀に農業をするわけだ.できればこのメタ的な構造を楽しみたいと思うのは自然なことで,面白そうなものはなんでも検討する.キウイの苗をNFT化することに始まり,Zentra Cloudで全天候データを計測しほ場を管理する,starlinkで畑にwifiを飛ばす,畑にトロッコを走らせる,果樹棚に古着を吊るして古着屋をやる等々...これは,イギリス人がアメリカに入植する際,農作物や家畜,冶金技術などの農業技術に限らない多くの文化的資産を持ち込み,アメリカ大陸における農業発展に大きく貢献したのと同じだ.きっと100年後には,科学で完全武装した魔法使いが手からザオリクみたいなのを出して未踏の地で植物を育てるに違いない.などと夢想する.そういうわけで中二病の自分は21世紀の自分が出せる最高火力のザオリクを探したのだが,それが大学で研究していたロボティクスや機械学習だった.

※ (重ねて言うが,ここで述べる技術的アプローチや研究開発の取り組みは,大熊町を含む福島の現地の方々の経験や歴史をないがしろにするものではなく,むしろその方々との対話や土地の背景を深く理解した上で進めるべきものであることを改めて強調しておきたい.震災以降の複雑な経緯や課題に真摯に向き合い,地域の皆様や関係者の声に耳を傾けながら,共同で新しい価値を創出することこそが目指すところであり,決して外部の人間が勝手な文脈で利用するという意図はない.)

ROSのドローン制御画面
製作中の自律ドローン

 ドローンと機械学習を使えばほ場のモニタリングもできるかもしれないし,キウイの受粉も可能かもしれない.と言うように話が進み,このザオリクをある程度の形にするために未踏に応募した.なので,ドローンを使って受粉をするという未踏プロジェクトの試みは極めて無邪気なものである.最初は何か重要なことをやりたいと気負っていた気がするが,気負ったところでザオリクが出るかどうかは変わらないし,やれるところまでやってみるという楽観的な挑戦の足枷になる.

 そもそも受粉が自分たちのキウイ農園の障壁となっているのも非常に無邪気な理由からだ.苗植えのときに一度に植えるキウイの品種を変えて開花時期をずらし,受粉作業のピークを均せばいいところを,無邪気なせいで勢い余って同じ品種を大量に植えてしまった.僕よりずっとキウイに詳しい友人たちがやったことなので偉そうなことは全く言えないのだが,こういう無邪気さが全体の豊かさを生み出しているような気がする.

 未踏の先輩の登さんがYoutubeで言っていて感動したのだが,無邪気なものの使命は自分達で引き起こしたバグは責任をもって自分達で直すことである.自分も先日勢い余って研究室のWifi設定を吹き飛ばしてしまったのだが,夜な夜なL2スイッチとか研究室設立の際に保存しておいたデフォルトゲートウェイアドレスの資料などを辿って直した.壊したときに非難轟々だったので研究室の仲間は共感してくれないと思うのだが,結果的に魔術化していた研究室のネットワークを構造化し,遅くなっていた転送速度も前よりかなり良くなった.

魔術化されたL2スイッチ

 思うに,壊したシステムを復旧する自覚と胆力があるから無邪気でいられるのだ.もっと言えば,システムの復旧という課題に少し興味をそそられるからその上で遊べるとも言える.

 これまで書いたように,自分が社会のマジョリティから離れた行動姿勢によって成り立っているのは否定できない.しかし,それと同時によりメタには大きな流れを大局的に推し量り,その一部になりたいという信仰が全体を支えてきたように思う.自分が福島でドローンを作っているのも,この作業がある大きな流れの一部であって,全体と繋がっている所作であると信じているからだ.この大きな流れの源流がどこにあり,どこへ向かっているのか言語化するのは難しいのだが、考えることにする.

 まず,一つ目の大きな流れは,世代交代である.自分たちの居る福島県大熊町は平均年齢が45.29と福島県内で最も若い市区町村である.その理由はいくつかあるが,根源的には被災によって高齢者が強制的に地域から引き剥がされ、体力のある若者が戻ってきたり新しく入ってきたりしたからだと考えられる.このような現象が地域全体に渡って起こった場所は自分の知る限り福島以外にないのではなかろうか.これは,若さが経済を駆動する根源的価値であると信じる僕にとってとても重要なことで,しかもそれが地方であることに大きな文脈を感じざるを得ない.

 大熊に戻ると,大学生,起業家,首都圏から半ばドロップアウトして地方で働いている若者(自分たちも少しはそうである)と2,30代の若者が社会的接点の半分以上を占める.大熊に来た時からなんとなく感じてはいたのだが,よく考えてみると片田舎の市区町村でこれは流石に異常である.常に新しい種類の社会的価値というものは,若者が集まる場所で生まれてきた.それは,若者が1番無邪気で間違えることのできる存在だからであり,最も体力のある(最近これが本当に重要だと感じるようになった)種類の知性だからである.

 大熊には絶えず新しい人が来て,新しいものを持ち込み,去るものは去るという代謝も文化として備わっており,これも全体の豊かさに深く寄与している.これら全ては福島に根付くイシューの力であってそれに引き寄せられる若者の力である.

キウイ畑に設置したトロッコで遊ぶ子供達(撮影:初沢亜利)

 二つ目の大きな流れは,科学技術の個人集約である.ここは自分で語らずともすでに多くの文脈が埋めこまれているので,あまり威勢よく主張したくないのだが,この文章の目的からして逃げるわけにはいかない.starlink,chatgpt,草刈り機まさお,何をあげてもいい,時代を構成する一つの大きな流れは,個人単位への能力集約に向かっている.

 21世紀に入って,個人レベルで作れる科学技術がビットを超えて物理世界に介入できるようになってきた.一つのノードがドローンである.いずれこのビット世界の裂け目も広がって,1人の人間がOSSで4足歩行ロボットもヒューマノイドも作れるようになる.そうなれば1番重要なのは,科学技術を自分に集約できる器と広い土地,それらを使って解決するに足る自分なりのイシューである.個人への能力集約は,個人と世界との接点において,価値の創出が大方完了するということであって,そのバックヤードで価値創出が起こりづらくなるということを意味する.学生時代の友人の多くは,このバックヤードに飛び込んで人生の目的を探そうとしている.これから最も大事なのは,自分の直面している課題や,豊かさの根源と直接接続されて生きていくことであって,産業構造のバックヤードでお金の計算をしていることではないのではないだろうか.

自作ドローン飛行  in the wild

 個人に集約された科学技術は,自然を変化させて初めて仕事量を生み出すわけだが,その最もプリミティブな形態は農業であって,僕たちにとっては目の前のキウイ農園だった.

 三つ目の大きな流れは,最も抽象的なもので,1番言語化がしにくいところでもあり,僕が福島に見出している最も重要な根源的価値でもある.それはこれからの乱世の中で個人がどう生きていくべきかという問いに対する答えであって,その答えに能動的に向おうとする流れの一部になっているという実感である.僕が福島に友人の車で向かう時,ひたち13号にのって品川に帰る時,人生のバックアップを取っている気持ちになる.都市圏で生きる自分の避難所を作っている気持ち,もっと言えば,都市圏に生きる自分の周りの人間の避難所を作っている気持ちになる.人間の目的は,ここ数年のゲームのルールに過剰適応して戦略コンサルに入ることではない.人間の目的は,狭い4畳一間の雑居ビルで首都直下に見舞われることではない.福島で廃墟を巡った時のあの気持ちは,いつ東京もああなっておかしくないという気持ちであって,その時僕たちはどうやって豊かに生きるのだろうかという切望感である.

ひたち13号の車窓から

 こう考えると,ぼくが大熊で感じる草熱の源泉がどこにあるのか見えてくる.それは,その土地にあるイシューの持つ価値であり,そこにいる当事者の若さであり,そこにいる若者の能力である.強いイシューの光にさらされてこそ,湧き立つ草の匂いがある.

 僕たちの生きる今後100年は,指数関数的に成長していて,もっと大きなオーダーで線形に崩壊していて,非連続に変化する価値観の荒波の中にある.おそらく,10年単位で持続する社会的権威やスキルは今よりもっと少なくなるだろう.社会が極めて低速であることを前提としてスキルや技術を積み重ね,キレイに生きる方策は個人のキャリアモデルとしても事業モデルとしても立ち行かなくなる.これからは,技術やスキルといった代替可能な能力に変わって,少なくとも10年単位で変わらない価値が必要だ.それは,その人が向き合っているイシューの価値である.

どんなに綺麗に生きてきたかではなく,今どんな課題に向き合っているかが,その人の価値になる時代が来る.肩書きやステータスのために自分の課題を探してもいいだろう.それが元々自分の生きる意味だったかのように振る舞うのもいい.だが,生きるに足る課題を見つけたと信じ切るのは,思ったより難しいものだ.

直面している壁が大きく本質的であればあるほど,湧き立つ草の匂いがある.その壁と向き合える自覚と胆力があるからこそ,僕たちは無邪気でいられるのだ.

ふざけて塗ったキウイトラック

いいなと思ったら応援しよう!