フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者
地球のみなさん、こんにちはあるいはこんばんは、脆弱なスキルと行動力で毎日迷走、成田悠輔氏を勝手に私淑してやまない、偏差値48の凡人です。
本日は、人が迷ったときにお勧めできる哲学の分野についての本を記事にしていきたいと思います。
IOTやAI、ビックデータなどの技術革新が加速度的に進化を遂げている今、私たちは現在さまざまな立場で時代の流れに追従しなければなりません。
時代の流れが早くその流れに必死についていくために、私たちは右往左往する情報をキャッチし選別し、自己のスキルや仕事の効率、生活の効率に反映しなければならないという重圧に押されて日々を消化しています。
そんな現代だからこそ、少し立ち止まって、生きる価値観を見つめなおしてみませんか。
先人たちが思考を凝らして突き詰めた哲学という分野に耳を傾けてみると違った視点からの価値観に気づけるかもしれません。
1 プラトン
紀元前428~紀元前384
古代ギリシャの哲学者、ソクラテスの弟子(ソクラテス自身は著書を残していない)アカデミアと思想主義の創始者。
プラトンは「イデア(=理想)の天界」を作り出した。
プラトンによると私たちの住むこの世界は本当の世界ではない。
——— 理想主義者・プラトン
プラトンは天に理想を求める。
プラトン哲学が理想主義と言われるのはこのためだ。
ニーチェはプラトンを理想主義の創始者と位置付けた。
プラトンは「饗宴」のなかでこう答えている。
誰よりも美しい肉体がほしいと思い続けることで、ひとは美という概念、ついには真理という概念に向かう。
もちろん、経験豊かな哲学者による導きは必要だろう。
ほしいのは美しい肉体ではなく、肉体の美しさであることに気づいたら、第一段階は完了だ。
されに、その美しさが均衡の真理にあると気づいたら第二段階も達成される。
いくつかの段階を経ることで、人間はイデアの天界に向かって昇っていく。
———— 肉体は死ぬべし
プラトンは知識は遠くの人生から突然湧き出てくる記憶であり、再認識であるという。
知ることは常に思い起こすことであり、記憶を呼び覚ますことなのだ。
「哲学とは死に方を学ぶこと」というのは、死によって肉体の限界から解放されるのを待つまでもなく、思考によって永遠のイデアに到達せよという意味である。
政治に関していえば、プラトンは民主主義に対して非常に厳しい目を向けている。
民主制は、人々が無自覚のまま権力を手にし、人民、正義、善などの本質についてイデアを仰ごうともせず、無知のまま政権を担うことを意味する。
不公平な政治を執り行う危険がある。
プラトンの問題発言
「哲学とは死に方を学ぶことだ」
プラトンの偉大さは理解していても、この定義だけは違和感を持つ人もいるだろう。
そもそも、死に方を学ぶことなどできるのだろうか。
プラトンは肉体を軽蔑し、憎んでさえいる。
これこそが、プラトンの思想の特徴なのである。
精神分析学者フロイト(1856~1939)は、私たちの肉体が実に複雑な自我と結びついていることを明らかにした。
肉体こそ、最初の知性であり、われわれは肉体を通して世界の真理を知る。
「哲学とは死に方を学ぶこと」ではなく、「生き方を学ぶこと」と考えられないだろうか。
2 アリストテレス
紀元前348~前322年
ギリシャの哲学者。医者の息子でプラトンの弟子。高校の語源でもあるリュケイオン創立者、現実主義と百科全書派の祖。
アリストテレスは地上の人間、多様性を擁護する立場から師匠であるプラトンを批判し、唯一絶対の永遠のイデアを否定する。
———— 現実主義者・アリストテレス
アリストテレスは純粋な理論による学問(主に数学)と行動に結びつく実践分野(物理、政治、倫理など)、さらに創造に結びつくポイエティークな分野(芸術や工芸)を区別する。
プラトンは偶発性を否定し、すべては必然であるとする。
アリストテレスはこの偶発性を行動に結びつけ、逃げずに受け入れることを説く。
プラトンは理想主義者で完璧を目指し人間の理想を極限まで高めようとする。
アリストテレスの人間観は、リアリストで、不完全ながらも欠点をいかに減らしていくかを具体的に考える。
———— 人間は政治的な動物である
政治観においても、アリストテレス民主政治への評価はプラトンと対立する。
プラトンは民主政治を評価しないが、アリストテレスは熱を込めて擁護する。
アリストテレスが民主政治を擁護するのは、集団で議論することによって理性的な決断や、法の制定が可能になると信じていたからである。
各人の知恵を持ち寄ることで、人間は賢くなれると考えた。
アリストテレスの問題発言
「自然によって定められて一対をなしているのは、治者と被治者とのそれであって、これはお互いの生存を安全にするためのものである」
この言葉を見る限り、プラトンとアリストテレスは共通する面もあるようだ。
二人とも人間の不平等を正当なものと考えている。
『政治学』の第一巻でアリストテレスは奴隷制を肯定している。
彼は奴隷制を絶対的な立場で擁護しているのではなく、都市の生活に奴隷制は必要な物であるとしているだけだ。
アリストテレスの時代、命令に従うことと奴隷であることは同じだった。
現在、たとえば労働者が、雇用契約に応じて、上司の決定に従うのはよくあることだ。
もし、給与が低く、生活費ぎりぎりの収入だとしたら、奴隷の生活と大差ない。
奴隷たちも食事、住居など最低限の生活に必要な物は主人から提供されていた。
国内外の労働市場の現況をよく観察してみよう。
遠い未来の人々は、今、私たちが古代ギリシャの奴隷制を非難するように、現在の状況をありえないものとして批判するかもしれないのだ。
3 デカルト
1596~1650年
フランスの哲学者、数学者、方法的懐疑と、人間の理解の限界と神の存在を証明する暫定的道徳の祖。
デカルトは、まず疑うことからはじめる。
だが、疑うこと自体が彼の哲学の目的ではない。
世界とは本当に存在しているだろうか。
今こうしていることも夢なのではないだろうか。
この目で見たことでも、それが真実だという証拠にはならないのではないだろうか。
———— われ思う、ゆえにわれあり
何もかも疑ってなお残るのが思考であり、疑うという思考である。
どんなにすべてを疑っても自分はいま、疑っているのだと考える自分がいる。
デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」はこうして生まれた。
人間には二つの特性がある。有限の知性と無限の意欲だ。
人間には有限(知性)と無限(意志・意欲)が共存している。
デカルト主義とは、無限と有限の弁証法なのだ。
デカルトはたとえ話の名人だ。
『方法序説』で彼は、「暫定的道徳」として四つの言葉を上げている。
一つ目。 その国の習慣に従おう。
二つ目。 何かを決断する時には、それが最善策であるというつもりで遂行しよう。
三つ目。 自らの欲求を満たすために努力しよう。だが、それができないときは世界の秩序ではなく、自らの欲望の方を変化させよう。
四つ目。 真理を求めよう。
限られた知性を最大限に使って熟考し、ひとたび決断したら、すべての力を尽くして行動に移す。有限の知性というちょっと短めの足と、無限の意思という壮大だが危険を伴う足、両足バランスを取り、転ばないように歩いていく。
器用に折り合いをつけて進むのが、デカルトの描いた理想の人間像である。
4 スピノザ
1632年~1677年
オランダ人哲学者。ラビ[ユダヤ教の指導者]になることを目指し、タルムード[ユダヤ教の経典の一つ]を研究したのち、「森羅万象」としての神を含め、神の完全否定に至る。
破門され、追放され、顕微鏡のレンズの研磨という最先端技術によって生計を立てていた。
スピノザの才あふれる著作を簡潔に紹介しようとすると、まずは、神の定義を一新させた「神とは、絶対に無限なる実有、いいかえれば各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」という言葉が浮かぶ。
スピノザは迷信はびこる仕組みを見事に解明してみせた。
自分の感情(希望、不安)に説明がつかず、答えが見つからぬことに耐えられなくなると、人はその感情を架空の存在のせいにしたくなる。
感情の本当の原因がわからない場合、神というものがいて、今、自分が置かれている状況には何らかの理由があるのだと思うことで自分を納得させようとする。
スピノザは喜びを重視し、愛とは何よりよりもまず喜びだとしていた。
だが、その割には、相思相愛の相手が、私にくれる幸せ、喜びを軽視しているのではないだろうか。
神、もしくは神のなかにある存在だけが真の原理であるとする哲学者なら、こうした論法もありうる話だが、スピノザは神を否定しているのである。
5 カント
1724年~1804年
出生地のケーニヒスベルクだけで一生を過ごしながら「私は何を知ることができるか」「私は何をするべきか」「私は何を願うことが許されるのか」というたった三つの疑問を探求することで哲学の歴史を変えたドイツの哲学者。
最初の疑問「私は何を知ることができるか」に答えようとしたのが『純粋理性批判』である。
この本が、哲学史上、非常に重要な本であることに間違いはない。
カントは間接的ながらも、デカルトや同時代の哲学者スウェーデンボルグらを批判の標的にした。
スウェーデンボルグは、単純な理論で神の存在を証明しようとした。
カントは彼のそうした態度を科学の精神や信仰の美しさを踏みにじる傲慢さだと非難している。
———— 革命的哲学者・カント
時間や空間は実際にあるわけではなく、人間の観念の中だけに存在する。(アインシュタインもそう言っている)
因果関係もまた物体ではなく、悟性の産物だ(ヒュームもそう言っている)。
人間としての能力の範囲で、科学的「真理」を構築する。
これがカント的構成主義である。
科学が私たちに教えてくれることは「間違い」ではないし、ときに生活に有益えなものであるが、「真理」ではない。私たちは、自分たちの能力の範囲でしか世界を知ることができない。
これが『純粋理性批判』の主旨である。
神の存在を証明できなくても、神を信じることはできる。
いて欲しいと願い、祈ることもある。
もし神の存在を証明出来たら、私たちはもはや祈らなくなるかもしれない。わたしたちは善であり全能である神がいて欲しいと願うことが「許されている」のだ。
「何を願うことが許されるのか」という問いにカントは、神、世界、自我と答える。
科学に限界があるからこそ、私たちは願い、祈ることが許されるのだ。
こうしてカントの有名な「信仰のための場所を空けておくために、知を廃棄しなければならなかった」という言葉に行きつく。
———— カントの問題発言
「好きなだけ、なんでもすきなことについて熟考せよ。ただし、服従せよ」
カントの言葉を文字通りに受け取るなら、自由に考えるということは、ただ考えるだけで、行動を伴わなくてもいいという意味での自由に過ぎず、隷属を肯定することになってしまう。
自由を容認すると見せかけるのはいかにも偽善的で、隷属を隷属として強制する以上に悪質にも思える。
カントは哲学においてのみ革命的だったとして、政治信条ははたしてどの程度、保守的だったのだろうか。
フランス革命の暴力性に対し、反感を抱いたことが彼の政治姿勢にも影響したのだろう。
以降、カントははっきりと硬化し、保守的な態度が決定的になる。どんな場合も法を順守するべきであるとし、秩序を守るためには何かを犠牲にしてでも常に従順であれというわけだ。
6 ヘーゲル
1770年~1831年
ナポレオンと同時代を生きた、プロテスタント派のドイツの哲学者。キーワードは、「歴史の終焉」と「芸術の死」。
ヘーゲルは歴史を、形而上学、美学、政治、宗教などすべての分野で、真理が段階的に進化していく過程としてとらえた。
形而上学的に見ると、歴史の始まりにおいて、≪精神≫エスプリ(ある種の神、絶対、自由、ヘーゲルが『歴史における理性』において理性と呼んだもの)は、当人の感情、もしくは自然そのままの本能であった。
≪精神≫は自然という、自分から最も遠い存在(神による世界の創生に似ているが、ヘーゲルの神は全能の神ではなく、不安な精神である)と対比させ、そのなかで徐々に自己の理想を実現する。
———— 自然が精神化する過程としての歴史
歴史とは自然が徐々に精神化する過程であり、人間の歴史(文明)や自意識の獲得が様々な段階を経て完成に向かう過程なのだ。
歴史は≪精神≫が自意識を高めていく過程をなぞるように進化していくとヘーゲルは『精神現象学』の中で書いている。(『精神現象学』とは≪精神≫が徐々に世界の中で客観化され、現象になるということである。)
ヘーゲルは『法哲学要綱』の中では、「法の体系とは、実現された自由の王国である」と書いている。
こうした政治的、法的な進化もまたヘーゲルにとっては、時を経て精神(自由)の意識が高まったことを意味している。
ヘーゲルによれば、ナポレオンは、自由の実現という勝利に向け、歴史を加速させたのだ。
———— ヘーゲルの問題発言
「アフリカは世界史に属する地域ではなく、運動も発展も見られない」
ヘーゲルに言わせると、アフリカには、北部を除き「普遍的な歴史にふさわしいレベルの」法治国家が存在していないということになる。
当時のアフリカに法はなく、弱肉強食の方しかないから、「自由」は存在しないとヘーゲルは考えた。
しかし、一神教はアフリカにも存在するし、ヘーゲルの時代にもすでに存在していた。
個人を超えた存在という概念もあったし、そこでは個人も尊重されていた(親族、集団、部族、法治国家もあった。)
理性の歴史にもアフリカの入る余地は果たしてないのだろうか。
真理という大きな物語にもアフリカは参加していないのだろうか。
7 キルケゴール
1813年~1855年
存在のパラドックスを唱え、ヘーゲルの理性についての考えに反論したデンマークの哲学者。
1831年、ヘーゲルが死んだ年にキルケゴールはコペンハーゲンの大学で神学を学び始めた。
ヘーゲルにとって存在とは、思考のなかに真理を見出すものだった。
一方、キルケゴールにとって存在の真理は、生きた時間の濃密さにあり、思考の対象とはならない。
ヘーゲルは、理解することに情熱を注いだが、キルケゴールは理解不能な物への情熱をかき立てる。
———— 反哲学的哲学者・キルケゴール
キルケゴールはニーチェと並び、反哲学的哲学者だということもできるだろう。
キルケゴールは、知識の重みが人間を小さな存在にしていることを常に残念に思っていた。
自らの知識にうぬぼれ、そのくせ生きているうちに強烈で真摯な実存の意味を知ることが少ない過去の哲学者たちを軽蔑していた。
キルケゴールはヘーゲルに比べ、個別性を重視しているものの、ロマン主義の限界や、主観が客観的認識を得ることの必然性といった指摘は、ヘーゲル哲学に通じるものである。
———— キルケゴールの問題発言
「筆名で書かれた本にあるのは、一語として私の言葉ではない」
言い換えれば、すべて彼の言葉なのかもしれない。
なにしろキルケゴールを読むかぎり、「私」の本質は常に他者から来るものであると理解できるからである。
人間にとって「自我」とはそういうものなのではないだろうか。
自分らしさとは、他者に向かって開かれた部分にしかないのだ。
ここでいう他者とは、神であろうが、他人であろうが、筆名によってつくりあげた別人格であろうが関係ない。
自分の声を聴くためには、どんな時であれ、他者の存在が必要なのである。
8 ニーチェ
1844年~1900年
反哲学、反ドイツ的な、ドイツの哲学者。
「神の死」と「永劫回帰」の提唱者。
1870年に最初の本を出してから、精神に異常をきたして1888年に活動を終えるまでのあいだ、ニーチェは非常に精力的に執筆し、次々と多様な本を執筆した。
なかには矛盾する内容の作品もあり、その活動をひとことで言い表すのは難しい。
ニーチェは、人格や性質について各人の奥底には常に変わらない確固たる核があるという考え、つまりアイデンティティという概念そのものを批判していた。
———— 複数の顔をもつ哲学者・ニーチェ
預言者であり、詩人であり、説教者の顔をもつ、ニーチェ。
ニーチェは新時代の到来を告げ、これまでの散文的な哲学を廃れさせ、もっと文学的で、詩的で警句的な言葉(『ツァラトゥストラ』『アンチ・キリスト』)を投げかける。
「永劫回帰」「力への意志」「超人間」といった新たな概念を生み出した。
新しい時代、人間は「神殺し」を成し遂げ、自らの力や意志を神に投影するのをやめ、ようやくありのままの自分を肯定する力を十全に手に入れる。
プラトン主義や「貧者のプラトン主義」と呼ばれたキリスト教は、確定された永遠のイデア、天国、つまりは真理を約束することで、「今、ここ」の人生を否定してきた。
だが、ニーチェは「今、ここ」の生に固執したのだ。
———— ニーチェの問題発言
「やりすぎです」
『力への意志』にニーチェの著作だ。
だが、これは、ニーチェが遺した断片の数々を彼の死後、妹がまとめたもので、改ざんも多い。彼の妹は極右的な傾向があり、その夫は反ユダヤ主義の国粋主義者であった。
「力への意志」は、精力礼賛になり、ニーチェのキリスト教倫理への批判は、反ユダヤ主義へとゆがめられた。「力への意志」は、その後ナチスの参考書にもなった。
現在もニーチェ本人が書いた部分と妹や妹の夫が手を加えた部分を判別することが難しく、本当の意味で、ニーチェの言葉として読むことはできないのだ。
9 フロイト
1856年~1939年
オーストラリアの精神分析医。ラビの息子にして、精神分析の父、能動的無意識の発見者。
厳密に言うなら、フロイトは哲学者ではない。
そもそもフロイト自身は多くの哲学者を信用せず、彼らが人間の本能を美化することに疑問をもちつづけていた。
精神分析医のフロイトは、何よりも人を癒すことを優先させてきた。
彼は思想家である前に治療者だったのだ。
フロイトの最大の功績は、能動的無意識の発見だろう。
私たちは、禁忌と倫理観に支配された文明社会で生まれ育ち、欲動を抑圧してきた。
この抑圧の司令塔が「超自我」である。
———— 過激な思想家・フロイト
人間の特性と人間の本性を新たな方法で示したのがフロイトなのである。
人間には不思議な転化能力がある。
動物は性的欲求を性的にしか解決できない。
だが、人間の欲動は柔軟である。
自然界が用意していた解決策とは別の行動、要するに代償行為によって欲求を満たすことができ、当初の目的を回避できる。
この代償行為による回避をフロイトは「倒錯」と呼んだ。
フロイトによると、人間は心の奥底に他人を殺したり、命を危険にさらしたりしたいという願望をもっている。
戦争が起こるのは、ある意味、文明社会に生きるなかで、市民権を失うリスクがある行為を正当化するためなのだ。
———— フロイトの問題発言
「肉体は運命である」
抑圧される以前から欲動は、「肉体」に存在する。
だからこそ、フロイトは、無意識を「魂」と位置付けていたのである。
無意識とはある意味、肉体の記憶である。
フロイトが「肉体」といったのは、客観的な肉体、身体全体ではなく、皮膚に残った傷跡や大きすぎる鼻、発音不全など、その人の人生に影を落としかねない身体的特徴や欠陥など、肉体構造の一部、身体の一部分でしかないのである。
個人の歴史、両親や祖父母の歴史まで遡ってみると、こうした身体的特徴は常に運命として受け入れるしか他に方法がなく、人生において時に決定的な要素となっていたということである。
よりよく生きるとは運命を受け入れることだとフロイトは言うだろう。
身体的な特徴や欠陥を自我の象徴としてとらえる考え方は、決定論に直結する。
どんなに努力しても、運命は変えられないと絶望するになりかねない。
「肉体は運命である」だが、運命を理解し、自覚することができれば、運命に振り回されることはない。
10 サルトル
1905年~1980年
情熱の人。実存主義を生み出したフランスの哲学者、作家。
『リベラシオン』紙を創刊、シモーヌ・ド・ボーヴォワールと契約婚、ノーベル文学賞を拒否。
サルトルは人間の「完全な自由」のために闘い、社会、歴史、無意識、信仰(神が存在するなら、人間は神が書いた筋書き通りの運命しか選べない)などあらゆる分野での決定論を完全に否定した。
この完全な自由という概念を、サルトルは「存在」ではなく「無」として捉えていた。
———— スター哲学者・サルトル
人間は、どんな状況から出発しようと大統領にもテロリストにもなれる。
美しくも醜くもなれるし、親切にも意地悪にもなれる。
可能性は広大な野原のように拡がり、存在はあくまでも行動があってこそ表面化する副次的なものにすぎない。
これがサルトルのいう自由なのだ。
サルトルの思想はしばしば大げさで、挑発的だ。
彼が多くの支持者と同時に敵を作ったのもこれが理由だろう。
「くたばれサルトル」と叫びながら、多くのフランス人がシャンゼリゼ通りを歩き、サルトルの住むアパルトマンにはプラスチック爆弾が投げ込まれた。
サルトルは二十世紀で最も罵詈雑言を浴びた知識人だろう。
サルトルの人生および思想は数々の転向や転換をしていく。
彼はかねてより、もし今の状態の自分が自分であると決めつけさえしなければ、人は常に新しい自分を生み出し続け、次々と、いくつもの顔を持つことができると言っていた。
———— サルトルの問題発言
「われわれは占領下にあったときほど、自由であったことはなかった」
自由は与えられるものではなく、「状況のなかで」勝ち取るものだ。
「占領下にあったときほど、自由であったことはなかった」
という言葉は、自由とは単に自由に動けるとか、好きなことをする権利などではなく、困難な選択に直面した時にこそ試されるべきものであり、それがまさに戦時中の占領下の生活だったという意味だ。
「占領下の生活ほど、自由を求めざるを得なくなった時代はない」と言い換えてもいい。
この言葉には、疑問が残る。
これまでになく自由が脅威にさらされ、自由を守るため、多くの人が戦場で命を賭して戦っているあいだ、筆を通してしか抵抗を表明しなかった哲学にとってこの挑発的な言葉はどんな意味をもつのだろう。
現場で闘った活動家たちは、「これまでそれほどまでに自由を感じていなかった」のだろうか。
もし、感じていたとしたら、彼らは同じように武器を手にしなかったのだろうか。
終わり