今も生きるアンベードカル菩薩の“生命”
死とは肉体から離れたエネルギー(引用者註:生命力)が宇宙に遊弋しているエネルギーの綜合体と合流していることを意味しているからである。それ故消滅には二つの側面があることになる。一つはエネルギー生産の消滅。もう一つは浮遊するエネルギー総体への参加である。(ビームラオ・ラームジー・アンベードカル著『ブッダとそのダンマ』光文社新書版、216~217頁)
Covid-19(通称:武漢肺炎)の影響を受けて、インドでもロックダウン(都市封鎖)が実施されている。
日本では昭和の日で、一部の企業は早めのGWを行っているところ、インドでは文字通り「命懸け」の境遇の方が続出している。無論、日本の中小企業も、似たような状況になりかねない訳だが。
そんな中、インドラ寺(マハラシュトラ州ナグプール県)の佐々井秀嶺上人は生活困窮者への炊き出しをされている。
私がかつて修行していた宝蔵神社の崇敬者でもある、上場企業経営者の窪寺伸浩先生は佐々井上人を「ダライ・ラマ以上の偉人」である、と言われていた。
脱原発を訴えている窪寺先生は、同じく宝蔵神社崇敬者でもある稲盛和夫先生と並ぶ、正論と実績を兼ね備えた偉大な経済人である。
佐々井秀嶺上人も、正論と実績を兼ね備えた偉人である。否、「菩薩」と言うべき方である。
ダライ・ラマ14世には「実績」が無い。立場上仕方のない面も当然あるのだからそれで彼を責めるのは筋違いではあるものの、チベット光復も成し遂げられず、インド仏教復興運動との連携も出来ていないことは、残念ながら事実である。
一方、佐々井秀嶺上人はアンベードカル菩薩(インド共和国初代法務大臣)の後継者として、旧不可触民階級の解放運動や「大乗仏教発祥の地」南天鉄塔の発見等において、まさに「実績」を残されている。
インド政府から少数者委員会の仏教徒代表に指名されたこともあり、まさに名実ともに、インド仏教復興運動の最高指導者である。
ここで、話を勧める前に私の還俗について、断り書きを書かせていただきたい。
私の「還俗」は「修行の挫折」であった。もっとも、これが「修行の放棄」になってしまうと、それこそ、これまでの修行の成果を無にすることになってしまうだろう。
西片擔雪禅師の弟子でもあるとある高僧(稲盛和夫先生の兄弟子)からは「自分の寺で得度して修行しないか」という有難い申し出をいただいた。だが、その申し出を受けることが私の「甘え」によるものであるならば、何のための修行か、ということになってしまう。
窪寺先生からは「非僧非俗で頑張るように」という旨の温かい言葉をいただいた。しかし、私に必要なのは「俗」での修行なのだと思う。
いずれにせよ、「俗」つまり「第三者」の立場からインド仏教復興運動を見ても、アンベードカル菩薩や佐々井秀嶺上人への崇敬の念は、消えることがない。当然である。偉人は誰から見ても偉人である。心の目が眩んでいない限り。
遅まきながら、佐々井秀嶺上人の高弟でアンベードカル博士国際教育協会日本支部参与の髙山龍智上人の次の記事を読ませていただいた。
これを読んで、政治活動が原因で還俗になった私は、ついつい白々しくアンベードカル菩薩の誕生日を祝うパフォーマンスをしたモディ首相の偽善者ぶりに注目してしまった。
モディ首相と安倍首相は似ている。もっとも、モディ首相の方が安倍首相よりかはマシだろう。というのも、インド人の政治リテラシーは日本人よりも高いからだ。
アンベードカル菩薩を尊敬するパフォーマンスでもしなければ、票を失う。それがインドである。
今の日本では、野党からして封建時代の支配者である徳川家の末裔を候補者に擁立する始末だ。「封建回帰パフォーマンス」とも言うべきか。「江戸しぐさ」みたいな、歴史改竄に基づいた「封建制に帰れ」運動に与党支持者も野党支持者も参画している。
インド版封建制度とも言うべきカースト制度を解体したアンベードカル菩薩が、政党を問わず(表向きにせよ)尊敬されるインドの方が、国民の意識は日本よりも高いのだ。いや、日本人はインド人の何百倍も恵まれておきながら、意識の低い人があまりにも多すぎるのではないか。
無論、インドの方が日本よりも「封建制の残滓」は根強い。髙山先生の次の言葉はとても重いものである。
さて、皆さんもよくご存知のように、今や新型コロナウイルスが世界中に広がっています。ウイルスは、誰にでも感染します。しかし、社会的な弱者がもっとも苦しめられます。
そんな時、モーディーさんは「ラクシュマン・レカー(結界)」と言いました。つまり〝線を引け〟ということですね。
その線が隔てるのは、シーター姫と魔王ラーヴァナ、浄と穢、そしてヒンドゥー教とそれ以外の宗教でしょう。
三月末、首都デリーで開かれたイスラム教の集会「タブリギ・ジャマート」においてコロナの集団感染が起こり、ホットスポット化したことをきっかけとして、ヒンドゥー教至上主義者による他宗教へのヘイトクライムも発生しています。
これは、明らかに道を踏み外した振る舞いです。私たちが〝線を引く〟べきところは、知性と迷信・正義と不正義・寛容と不寛容、その間です。
この言葉は、日本人にとっても大いに参考になる言葉である。
だが、これを読んで思ったのは、インドではいまだにアンベードカル菩薩の「生命」が生きている、ということだ。
アンベードカル菩薩が「輪廻転生」を否定したことについて、アンベードカル菩薩がスピリチュアルなものを全否定したと誤解される方もいる。
しかし、アンベードカル菩薩はスピリチュアルなものの存在を認めたうえで、それを科学的に解釈するべし、と説いたのである。そして、その精神に最も合致するのが、お釈迦様の教えであった。
アンベードカル菩薩によると、人間がそのまま再生することは、あり得ない。しかし、その生命力のエネルギーは宇宙に残り続ける。
アンベードカル菩薩がカースト制度と不可触民差別撤廃に注いだエネルギーは、アンベードカル菩薩の死後も残っているようである。
日本の方がインドよりも恵まれている点は多いが、アンベードカル菩薩の教えが未だ生きていることについては、本当にインドが羨ましい。