自衛隊の合憲性について
先日のFacebook投稿で自衛隊合憲論を「明白」と書いたことについて、憲法学者の高乗正臣先生から叱責を受けましたので、釈明と言う訳ではありませんが、この問題についての私見を書かせていただきます。
まず、私の所属する立憲民主党の立場は「これまで自衛隊が合憲であることを前提に運用していた以上、この解釈を今さら変更すると法令その他への影響が大きすぎるため、自衛隊違憲論の立場に立つことは出来ない」というものです(執行部員を含む複数の党所属議員に確認しています)。
これは恐らく、自民党を含む多くの政党も同じ立場であると推察します。
現に今の日本の政党で自衛隊違憲論を明確にしているのは日本共産党だけで、社会民主党でさえも「違憲状態論」と、事実上の合憲論にシフトしています。
自衛隊合憲論は大きく次の二つに分かれます。
A 『日本国憲法』第9条は第1項で「戦争の放棄」を定めたがそれは侵略戦争に限定されているため、第2項の「戦力の不保持」は自衛のための戦力保持をも禁ずるものではない。
B 『日本国憲法』第9条は第2項において「戦力の不保持」を定めており、自衛のためであっても戦力は保持できないが、自衛隊は戦力では無いため問題ない。
これについてですが、Aは第2項の「戦力の不保持」の部分に「前項の目的を達するため」という限定詞があることを根拠としています。
つまり、あくまでも侵略戦争を放棄する目的を達成するための戦力の不保持である、という解釈なのですが、この解釈は第2項の後段では限定詞無しで「国の交戦権は、これを認めない」とあることに矛盾します。
即ち、『日本国憲法』第9条は「交戦権の否認」については一切の限定詞が無く、交戦権が無いのに戦力を保持するというのは理屈として明らかに可笑しいため、Aの解釈は少数派です。
そこでBの解釈が今の主流派で、政府見解もBの解釈を前提としていると推察されます。
私も自衛隊が合憲である理由を問われた場合には、佐藤幸治先生の解釈(戦争は全面的に放棄したが自衛のための武力行使は放棄していないという説)を基に説明しています。
しかしながら、先日高乗先生に電話で憲法問題について質問した際、自衛隊が戦力では無いという解釈は成り立たないと言われました。
私は逆に「自衛隊が戦力では無い理由」を教えてくれる憲法学者や政治学者はいないのか、と思っていましたが、私の知る限り「自衛隊が戦力では無い」という論証をしている論文はどうも無いようです。
戦力は英語で「war potential」であり、自衛隊が「potential」ですら無いという論証は恐らく不可能で、仮にその解釈をゴリ押ししたとしても、海外の軍隊と一緒に演習もしてジブチでは治外法権まで有している自衛隊に「交戦権が無い」と言う理屈は通用しないでしょう。
繰り返しますが、戦力については「自衛のためだと例外」という解釈は一応不可能では無いですが(私は賛同しません)、「交戦権」については一切の限定詞が付いていない以上、これは例外を認めない趣旨であると解釈するほか、ありません。
とは言え自衛隊廃止論は今や自衛隊違憲論の立場に立つ共産党すら「段階的廃止」「連立政権であれば自衛隊を廃止しないし活用する」と言っている状況であり、これを解決する方策は次の3つしか無いでしょう。
第一に、最近日本共産党の主張する「国民の総意」論です。これは国民主権である以上、「国民の総意」が憲法の条文よりも上位に来るので「国民の合意」が形成されるまでは自衛隊を廃止しない、というものです。
この理屈は要するに「自衛隊合憲論の立憲民主党と共闘している間は自衛隊廃止を主張できない」ということでしょうが、ロジックとしては事実上「国民の総意」を『日本国憲法』の上位に置いているため、これまで共産党が批判してきた統治行為論と全く同じ論理構造となります。この点、共産党側による論理的整合性が気になります。
立憲主義の立場としては、国民主権を憲法の上位に置くと何でもありの理屈となるため、同意できません。しかしながら、これは国民に憲法制定権力が帰属するとした『日本国憲法』自体が抱えている矛盾です。
と言う訳で、当然のことながらそのような矛盾のある『日本国憲法』自体を何とかしよう、というのが残りの二つの選択肢です。
第二に、取り敢えずは「自衛隊は存在するが交戦しません」ということにして、将来的に『日本国憲法』第9条第2項を改正するという方法があります。
この場合は『日本国憲法』第9条第2項の改正を実現するまでは自衛隊が張り子の虎となって仕舞いますが、「交戦権が無い」と言いながら海外に基地まで持っていると却って国際的信用を無くすので憲法改正をしましょう、というロジックは一応成り立つと考えます。
第三に、『日本国憲法』自体がそもそも憲法典としては無効、という立場に立つものです。もっとも『日本国憲法』が完全に無効とすると混乱も大きいので、現実的には南出喜久治先生が言われているような講和条約説に立脚することになります。
『日本国憲法』が講和条約であるとした場合、『サンフランシスコ平和条約』の規定により自衛権が認められたため、それにより交戦権が回復したという事になります。私はこれが一番筋の通っている解釈だとは思います。
しかしながら、この場合は自衛隊が『大日本帝国憲法』下の軍隊という事になりますが、現実の自衛隊は明らかに行政府である内閣の指揮下に置かれています。南出先生は「自衛隊は今でも皇軍である」という解釈のようですが、その解釈も現実と乖離しているでしょう。
いずれにせよ、自衛のためであっても交戦権を行使できないというのは尋常ではない話で、この世界に「軍隊の無い独立国」は存在しますが「交戦権の無い独立国」は存在しません。一部左翼勢力は「自衛隊を廃止すれば良い」という考えのようですが、仮にその立場を取るにしても、交戦権が無いのは独立国として有り得ないことです。
大東亜戦争でも日本に宣戦布告した全ての国が日本と「戦力」を交えていた訳ではありません。当時は集団的自衛権の概念は明確化されていませんが、それと類似のロジックで彼らは「交戦権」を行使した訳です。
交戦権が無ければ一方的に侵略された場合でも戦時国際法による保護を求めることが出来なくなります。その意味で今の『日本国憲法』第9条には重大な問題があり、これは拡大解釈によって乗り切れるものではありません。
こういうと「それならどうして自民党による改憲に反対するのか」と言われそうですが、まず、立憲民主党は前身政党である民主党の時代に「国連憲章上の『制約された自衛権』について明記する」「憲法に何らかの形で、国連が主導する集団安全保障活動への参加を位置づけ」る、という内容の提言を纏めており、立憲民主党は民主党時代の憲法提言を継承はしていませんが「論憲」という形で議論の対象にはしています。
一方、今の自民党政権の出している案は、「国の交戦権は、これを認めない」という第9条第2項の規定を放置したまま自衛権の存在を明記するというもので、「交戦権の無い自衛隊」等と言う存在を憲法に明記したところで、これまで書いて来たような矛盾は解消されません。
これについても、自民党の中でも佐藤正久先生らは安全保障政策について深い見識をお持ちで野党議員とも積極的に意見交換をしているようですから、そういう方々が主導して憲法論議をすると事態は変わるかもしれません。
現時点では、自衛隊合憲の政府解釈を覆すことの混乱を考えると、政治的には自衛隊違憲論を政党・政治家が唱えるメリットはないと言えますが、自衛隊が戦争を想定して運用されていることは客観的事実であり、そうである以上は「自衛隊は戦力ではなく、国家にも自衛のためであっても交戦権を認めない」というような立場をいつまでも続けるわけにはいかないと、私個人は考えます。
一方で日本の法体系全体が「軍隊が無い事」を前提としており、仮に自衛隊を軍隊として位置づけるのであれば、自衛隊をどのような軍隊として位置づけるのか、本当に行政府の一機関として内閣総理大臣が最高指揮官である状態でよいのか、という問題に正面から向き合わないといけないでしょう。
これも私の個人の意見としては、アメリカでは憲法に明記はされていなくとも軍隊の統帥権は大統領にあるとされており、戦前の日本でも統帥権の独立は実は『大日本帝国憲法』に明記はされていませんが国家元首に「兵馬の権」があることは当然とされていたという事実があり、他国でも「軍隊の政治利用」を避ける観点から政府と軍隊に一定の距離を求めるケースが多いようですので、文民統制の原則と同時に「文民政治家による軍隊利用」をも阻止するバランスのとれた制度設計を模索しなければならないと考えます。
そうした議論すらも今の日本の政治状況では許されないのは残念なことですが、不思議なことに私はプロチョイス批判で左翼から炎上し立憲ユース副代表を解任されたことはあっても、正統憲法復原・改正を唱えたことを理由に炎上したことはありません。結局、左側の皆様も内心では現状の矛盾に気付いているのではないでしょうか?