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実は吉良上野介は名君だった!?――赤穂義挙の真相と「皇道忠臣蔵」

 12月14日と言えば、私たち播磨の人間からすると大切な「赤穂義挙」の日です。
 前年に赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかったため、切腹の上にお家断絶。それを受けて、大石内蔵助ら浅野家の元藩士たちが「仇討ち」と称して吉良上野介を殺害したのが赤穂義挙です。
 世間では「忠臣蔵」として物語化されている事件ですが、要約を見ると事情を知らない方は「え?それが義挙?」と思うでしょう。というか、それが正常な判断です。
 忠臣蔵では浅野内匠頭が善役で吉良上野介が悪役になっていますが、浅野内匠頭が吉良上野介を襲ったことは中々肯定できません。
 一方的に人に斬りかかることは当時の法律でも当然犯罪ですし、しかも場所は天皇陛下の勅使が来ている江戸城。切腹になったのは止むを得ない措置です。
 状況からして、浅野内匠頭には正常な判断能力を失っていた節があります。浅野内匠頭が「斬りかかった」と書きましたが、これは日本刀で斬りかかったのではなく、短剣で斬りかかったのです。
 短剣は刺すようの武器です。短剣で斬りかかっても人を殺すのは困難です。実際、吉良上野介は死んでいません。武士なのに武器の使い方も知らなかったとなれば、正常な判断能力を失っていたと思われても仕方ありません。
 そのため、浅野家の家老であった大石内蔵助も、当初から仇討ちをしようとしていた訳ではありません。浅野内匠頭が切腹になったのは仕方ないとして赤穂城も明け渡しましたが、ただお家断絶だけは避けたい、浅野家を遠戚の人に継がせてほしいと江戸幕府に交渉していたのです。
 一方、吉良上野介はと言うと、実は名君であると言われています。
 吉良上野介には三河の領地で堤防や新田を作ったという伝承があります。もっとも、当時の記録には新田開発の結果、近隣の領主とトラブルになったことが記されていると言い、実際私も尾張では吉良家と水争いがあったという伝承があると聞きましたから、歴史は一面的には語れないものです。
 吉良上野介は勤皇思想家である山鹿素行とも親交があり、彼個人は天皇陛下を崇敬はしていたと思われます。一方、浅野家も山鹿素行に学んでいましたから、両者の思想は本来近かったはずです。
 しかし、江戸幕府が採用した「封建制」が事件を生みました。
 封建制とは、とても簡単に言うと「親分と子分の関係」ですべてが動くシステムです。
 江戸時代と言うと、征夷大将軍が全国を支配していたようなイメージがありますが、徳川将軍家が統治していたのは幕府直轄領だけです。幕府直轄領以外の住民に将軍が命令を出すことは、有りません。
 それでは幕府直轄領以外はどうなっていたか、と言うと将軍の「子分」である大名や旗本が領主として支配していたのです。
 将軍は大名や旗本に命令を下すことはありますが、大名や旗本の部下や領民に直接命令を下すことはありません。武士にとっても主君はあくまでも大名家や旗本家であり、将軍家ではありません(大名・旗本以外で将軍の部下である武士は御家人と言います)。
 逆に、幕府直轄領の領民は将軍家だけを主君としており、他の大名や旗本は関係ありません。江戸の町を大名行列が通った時、江戸の町民は将軍家やその分家である御三家の場合は頭を下げますが、他の大名には頭を下げません。
 一方で、形式的には律令国家以来の天皇を頂点とする制度も生き残っていました。浅野内匠頭も吉良上野介も本名ではなく、「内匠頭」や「上野介」は朝廷における官位です。二人とも形式上は天皇陛下の臣民なのです。
 しかしながら、現実には吉良上野介も江戸幕府の命令で動きます。
 実は当時、霊元上皇と東山天皇は江戸幕府と対立しており、そしてその際の朝廷との交渉を将軍の命令でしていたのが、吉良家であったのです。そのため、吉良上野介に浅野内匠頭が斬りかかったことを知った東山天皇は「御喜悦の旨、仰せ下し」たと当時の記録にはあります。
 対して、大石内蔵助ら浅野家の家臣たちはあくまでも浅野家が主君です。浅野内匠頭の切腹は仕方ないとしても、幕府の命令は「お家断絶」、つまり浅野家を誰かが継ぐことも認めないというもので、そうであれば浅野家の家臣は全員失業してしまいます。
 そこで大石内蔵助は当初浅野家再興を求めて活動していたのですが、それに失敗します。
 しかし、大石内蔵助たちは武士です。「あんたら失業したから諦めて商売でもして下され」と言う訳にはいきません。仕官できないならば実力行使です。
 その結果発生したのが赤穂義挙です。封建制と言う制度を採用しているからこそ、大石内蔵助たちも暴力に訴えないといけなかったわけです。
 そして、そのことを正当化するロジックが「勤皇思想」でした。
 無論、江戸時代に公然と勤皇思想を掲げると弾圧されてしまいますが、当時の人たちは赤穂義挙の動機が勤皇思想であると理解していました。
 その証拠が忠臣蔵です。忠臣蔵はフィクションであることを明確にするため、登場人物は全て室町時代の人物に置き換えられています。
 吉良上野介は高師直に置き換えられました。江戸時代は浅野内匠頭や吉良上野介同様、「名字+官名」で人を呼ぶのが通例ですので、武蔵守であった高師直も忠臣蔵では「高武蔵守」と呼ばれています。
 武蔵とは言うまでも無く江戸を含むエリアであり、その時点で「勤皇討幕」思想が見え隠れしています。さらに高師直は『太平記』においては天皇陛下を軽視した人物であると描かれており、実際には高師直自身が直接不敬なことをしたことは無いようですが、彼に近い
土岐頼遠が上皇の車に矢を放ったこともあり、「朝敵」のイメージが強い人物でした。
 吉良上野介と高師直を同一視させることにより、忠臣蔵は「赤穂義挙の動機は勤皇思想である」と言うことを遠回しに伝えたのです。
 ただ、高師直は女好きで有名なのに対して吉良上野介は愛妻家であったと言いますから、流石に吉良上野介と高師直を同一視させるのは可哀想な気もしますが。
 大石内蔵助が本当に山鹿素行の士道を学んでいたかは議論がありますが、いずれにせよ赤穂義士の勤皇思想はこうして遠回しにではあるものの、全国に拡散されました。
 それが数百年経って明治維新へと結実します。皮肉にも殺された側の吉良上野介も山鹿素行に学んでいた訳ですが、吉良上野介からすると自分の死が生前は実践出来なかった勤皇運動に繋がり本望であったかもしれません。

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