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竹内式部の思想

 私の尊敬する江戸時代の勤皇家・竹内式部は、一般に儒家神道の一種と言われる垂加神道の信者であった。
 古代中国では、どこまで実践していたかはともかくとして、孝を絶対的な道徳律とし、それは場合によっては君主への忠誠を上回るものであった。
 中国の南北朝時代の歴史を紐解くと、南朝と北朝の双方に仕えた一族が少なくないことが判る。日本で一族が敵味方に分かれた場合は決まってお家騒動のようなことが起きている時であり、我が国の南北朝時代もそうであるが、中国の南北朝時代ではそのような痕跡は見られず、むしろ自分が負けると敵方の親戚のお世話になっている節さえ、ある。
 国家の離合集散の激しい中国においては、国家以上に一族を重んじるのは「生きる知恵」であったのかもしれないが、そのような中国を母体とした儒教の内容がそのまま日本に適用できないことは明白であった。
 我が国でも国家が分裂したことはある。しかしながら、南北朝時代の場合も北朝も南朝もあくまでも「日本」という国の枠組みの中で対立したのであり、中国の南北朝時代とは大きく異なるものであった。
 竹内式部は、その日本という国において、儒教の再解釈を果敢に試みた思想家であると言える。
 これは、従来封建制を支える枠組みであった儒教を「吾國の大義」によって換骨奪胎し、むしろ封建制否定の論理へと組み換えたのである。
 竹内式部は『奉公心得書』でこう述べる――

「代々の帝より今の大君に至るまで、人間の種ならず、天照大神の御末なれば、直に神樣と拜し奉つり、御位に即かせ給ふも、天の日を繼ぐといふ」

 最近、保守を名乗るものでも「天皇を神と言うのは、日本では奥さんを『おかみさん』というのと同じような意味である」等と言う者がいる。
 彼は自分の妻の御真影を神棚に飾っているのかもしれないが、いずれにせよ、「日本では何でも神と言う、だから天皇を神と言う人もいるのだ」というような解釈は、自称保守やネトウヨから反天皇の極左勢力まで、肯定するか否定するかはともかく、人口に膾炙した認識の様である。
 戦前の国家神道を巡る議論を見ても「天皇の神格化は近代になって作られた新しい信仰だ!」という者と「いや、戦前も天皇をGODと言う意味での神格化はしていない!」と言う者とが争っていたりする。
 しかしながら、竹内式部は決して天皇陛下を他の存在と同列には扱わなかった。竹内式部が天皇陛下を「直に神樣と拜し奉つ」るのは、天皇陛下を自分の妻と同列に扱った訳ではなく、また菅原道真公を神として祀るような意味合いでもなく、天皇陛下は「(人間ではなく)天照大神の御末」である、という意味であった。
 そのため、儒教における「孝」の概念も必然的に変わることになる。竹内式部はこう述べる――

「故に此の君に背くものあれハ、親兄弟たりといへども、則之を誅して君に歸ること、吾國の大義なる。」

 自分の親兄弟が朝敵であるならばこれを誅するべきである、というのが、竹内式部の思想であった。
 無論、これは本当に親兄弟を殺せというよりも「誅殺の必要が生じないように、命懸けで親兄弟を説得すべし」という含意があるであろう。竹内式部は公家相手に講義をしていたが、当時の公家社会では摂関家が絶大な権力を握っており、無論、公家の親たちも摂関家に従うように指導するのであるから、摂関家に逆らうためには親兄弟とも対立する覚悟が必要であったのだ。
 こういうと「朝廷=摂関家」と言う認識の者には理解できないかもしれないが、そもそも摂政と関白と言うのは朝廷の正式な官職ではなく、天皇の代理人と言うだけの役職である。従って、朝廷と摂関家の意見が対立することはしばしばあった。
 特に江戸時代においては、江戸幕府と摂関家は良好な関係であった。朝廷弾圧法として悪名高い『禁中並びに公家諸法度』は一般に徳川家康の主導とされるが、実は家康・秀忠が当時の関白である二条昭実と連名で出したものであり、署名は二条昭実の方が先であるから、形式上は関白が第一命令者として出されたことになる。
 そもそも、朝廷がどうして権力を失ったのか。それは言うまでもなく、公家の祖先たちがきちんと政治をしなかったからである。だから、竹内式部は朝廷による政治を復興させるためには、孝を言い訳に政治活動を怠ることが無いよう、公家たちに進講する必要性があったのである。
 竹内式部は言う――

「況や官祿いたゞく人々ハ、世に云ふ三代相傳の主人などといふ類にあらず。神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至まで大恩を蒙むる人なれハ、其身ハ勿論、紙一枚絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。」

 公家は先祖代々天皇に仕えていたのであるから、「三代相傳の主人」つまり封建的な支配者(公家の場合は各門流の摂関家)等よりも天皇陛下の方が優先されるべきである、そもそも親兄弟と対立してでもといったが、公家ならばその親兄弟も天皇陛下に仕えていたではないか――こう竹内式部は述べた。
 無論、摂関家は竹内式部の矛先が自分たちに向かっていることを自覚していた。近年の研究では、竹内式部が流刑となった宝暦事件は江戸幕府以上に摂関家の意向が大きかったという。
 宝暦事件により、朝廷では勤皇派の公家が弾圧された。摂関家による支配は盤石なものとなり、それに伴い江戸幕府にとっても朝廷は脅威ではなくなった。
 しかし、竹内式部の思想は彼がいくら処罰されても消えることは無かった。
 岩倉具視は竹内式部の思想を幼い頃から学んでいた。やがて彼は「王政復古の大号令」を実現させ、そこにはこう記されていた。

「王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今摂関幕府等廃絶」

 摂政と関白とが幕府と同時に廃止された瞬間であった。
 竹内式部の思想は、死後何百年も経ってから実現した。
 恐らく、竹内式部の思想は彼が生きている間は非現実的であるといわれたであろう。しかしながら、歴史は竹内式部の正しさを証明したのである。
 今でも、正論を言うと「現実を見ろ」という人が、必ず出てくる。
 そういう人は、仮に江戸時代に生れていたならば、勤皇の志士たらんことを諦めるのであろうか?そうであれば、そのような者の言う戯言など、相手にするべきでは無いであろう。


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