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雛人形「性の多様化」で連想する『とりかへばや物語』の悲劇

 今日はひな祭り、桃の節句である。桃の節句とは色々な意味で日本の縮図だ。

 桃の節句の起源は古い。発祥は古代中国で月の最初の「巳」の日に宮中行事を行っていたことらしい。

 大宝元年(西暦701年、皇暦1361年)に『大宝律令』によって日本でも定められた。一般に「上巳節会」と言われるが、律令ではこの日は「三月三日」に固定されており、必ずしも干支が「巳」の日ではない。

 そのような由緒ある行事が形を変えながらも現代まで続いていることは素晴らしいことである。しかも、今では女の子の健やかな成長を祈る、微笑ましい行事だ。

 だが、そんな微笑ましい行事も「暴力によって」形を変えられることはあってはならないであろう。

 どんな伝統も変化はするものであるが、女の子の健やかな成長を祈るのに暴力は相応しくない。しかしながら、実際には過去には暴力によってこの祭りは変化を受けたし、そして今、暴力では無いがとんでもない圧力がこの祭りにかかっている。

 皆様は「公家雛」「武家雛」と言うのを聞いたことがあるだろうか?

 簡単に言うと、公家雛は京都に多い雛人形で、お内裏様がお雛様の左に座る。つまり、お内裏様が向かって右側に座っている雛人形である。

 一方、武家雛は東京から始まった雛人形で、お内裏様がお雛様の右に座る。つまり、お内裏様が向かって左側に座っている雛人形である。

 今の日本では「武家雛」が圧倒的に多い。だが、そもそもこのこと自体が暴力に支配を肯定している証左である。

 そもそもお内裏様は天皇陛下のことだ。天皇皇后両陛下を飾る雛人形をどうして「武家様式」にしているのか。それは言うまでも無く、過去に武士が暴力によってこの国を支配したからである。

 さらに今ではマスコミの宣伝もあり、「東京様式」が恰もスタンダードであるかのように宣伝されている。つまり、武家雛は「封建支配の名残」であると同時に「東京支配の象徴」でもある。

 昔この国は暴力で武家に支配され、今は経済力で東京に支配されているのだ。そのことを雛人形は見事に示してしまっている。

 「封建支配」「東京支配」を肯定しながら女の子を育てても、それは「権力者に媚びる女」を量産するだけである。どうしてそんな人形を作りたいのであれば「お内裏様とお雛様」ではなく「安倍晋三様と稲田朋美様」で人形を作ればよかろう。

 稲田朋美議員と言えば『LGBT法案』で有名だが、まさに今、その稲田議員の主導する「性の多様化」の波が雛人形にも訪れている。

 「女性同士の雛人形」「男性同士の雛人形」とはどういうことなのか。「女性天皇と女性皇后」「男性天皇と男性皇后」の組み合わせと言う事なのだろうか?

 もっとも「雛人形はフィクションなんだから、リアルさを求めてはいけない!」と言う意見もあるかもしれない。確かに「女性天皇と女性皇后」の組み合わせならば、中世からフィクションとしては語られてきた。

 私が思い出すのは『とりかへばや物語』の一節だ。

 『とりかへばや物語』は鎌倉時代に出来た小説である。その中で天皇が譲位する場面がある。

 その天皇、息子がいなかったので、遠戚の男性を皇太子にしていた。それは別に良いのだが、実は皇太子にも息子がいなかった。では、譲位した後の皇太子を誰にするのか。

 そこで天皇が思いついたのが、自分の娘を次期皇太子にすることである。それには先例もあるから良いだろう、と考えた。

 「天皇陛下に娘しかいない」「女性皇太子を検討」――なんか、令和の御代にも聴くような話である。女性天皇が数百年存在していなかった鎌倉時代にこの種の話を思いついた『とりかへばや物語』の著者の想像力が豊かなのか、それとも我が国が中世レベルから進歩していないのか。

 さてこうして天皇は譲位して上皇となり、同時に数百年振りの女性皇太子が誕生したが、上皇(前天皇)の娘とは言え、新しい天皇とは血縁関係にない。誰か後見人が必要である。そこで上皇が目を付けたのが時の関白の”娘”であった。

 ところがこの関白の”娘”が実は男なのである。彼は幼い頃から女装が好きであったので、仕方ないから娘として育てていたのだ。そうとは知らない上皇の意向により、彼は後宮の女官のトップである尚侍となった。

 尚侍と言うのは当時は事実上の「キサキ候補」であった。そこで娘(と思われている息子)の尚侍就任を渋る関白に登場人物がこういう旨のことを語る。

「これはいい話ですぞ。娘さんが今尚侍として皇太子の後見人となれば、皇太子が即位したときには皇后になれるかもしれませんぞ。」

 女性皇太子が即位して女性皇后が誕生するとはいかなることか。この物語の登場人物の脳内では「女性天皇と女性皇后」の組み合わせがあり得るものであったらしい。

 当時の皇后は必ずしも配偶者では無かった、と言うことが前提にあるのかもしれないが、「女性天皇と女性皇后」と言うのは百合好きには堪らない設定ではある。しかしながら、後述の通り『とりかへばや物語』では結局、女性皇太子は即位しない。

 『とりかへばや物語』はあくまでもフィクションではあるが、ひな祭りが「女の子の健やかな成長を祈る」行事である以上、レズビアンやホモロマンティック・アセクシャルの女の子のために「女性天皇と女性皇后」の雛人形を飾ることは、一つの楽しみ方と言うことも出来るかも、知れない。

 しかしながら、「男性同士の雛人形」とはどういうことなのか。

 「ゲイやホモロマンティック・アセクシャルの男の子の為だ!」と言うでも言うつもりか。しかし、いつの間にひな祭りは「男の子の健やかな成長を祈る」祭りになったのか。

 「女の子の健やかな成長を祈る」はずのひな祭りにおいて「男性天皇と男性皇后」の人形を作り飾るなど、どこからツッコんでいいのか判らない話である。

 ハフポストの記事には「みんなにひな祭りを楽しんでほしい。そのために全力です。『みんな』にはもちろん、多様な性、LGBTQの方々も含まれています。」と書いてあるが、そもそもLGBTQに私たちアセクシャルを含むAスペクトラムやXジェンダーの当事者が含まれない(だからSRGMか、せめてLGBTsを使ってほしい)というツッコミは言うとキリが無いから控えるとして、ひな祭りにおける「みんな」は女の子だったはずである。

 結局、LGBTQを名目に反天皇宣伝をしたいのが本音では無いのか。女の子のため(のはず)の行事を男性側の都合で変える以上、ミソジニーと反天皇のセットである。ネトウヨが眞子内親王殿下を攻撃するのと一緒だ。

 最後に『とりかへばや物語』の話の続きについて触れておこう。

 一部に誤解されている方がいるが、この話はトランスジェンダーを題材にした話では、無い。むしろ当該の関白の息子は女装したレイプ魔である。

 彼は尚侍就任後、女性皇太子をレイプして子供まで産ませた。

 令和の今でまさに議論されているような話である。令和の御代になっても我が国は中世から想定されていたことに対応できていない。

 女性皇太子はその後、天皇陛下に念願の息子が誕生したので廃嫡されましたとさ。

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日野智貴
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。 拙い記事ではありますが、宜しければサポートをよろしくお願いします。 いただいたサポートは「日本SRGM連盟」「日本アニマルライツ連盟」の運営や「生命尊重の社会実現」のための活動費とさせていただきます。