「建前保守、本音朝敵」の政治は王朝国家から始まった【律令国家の崩壊(7)】
前回まで律令国家の崩壊と藤原氏が権力を握っていく過程を見てきました。
菅原道真が失脚した翌年、延喜2年(西暦902年)にいよいよ律令国家は名実ともに崩壊します。それ以降の日本は「王朝国家」と呼ばれます。
一体、延喜2年に何が起きたのでしょうか?そして、律令国家と王朝国家とは具体的に何が違うのでしょうか?
「律令国家の崩壊」シリーズの最終回である今回は、古代から中世の転換について、なるべく判りやすく説明させていただきます。
国民に平等に農地を分配するのが律令国家の根幹
そもそも律令国家とは何か。「律令による政治」と言うのが一応の答えですが、それだけだと不十分です。
「天皇陛下の権威の下、全ての国民に平等に農地を分配した。」
これが、律令国家の根幹である「班田収授」です。奈良時代には6年に一回、平安時代になると12年に一回、全ての国民に平等に農地を支給していました。
これにより貧困に喘ぐ国民はいなくなる・・・はずでしたが、藤原仲麻呂が公廨稲制を導入して以降、律令国家の理念と現実はどんどん乖離していきます。
しかし!それでも「建前」としては
「全ての国民の幸せを願う天皇陛下の大御心を体現して、全ての百姓に口分田を支給します!」
という姿勢を、政府は取り続けていました。
いくら私利私欲に満ちた藤原氏であっても
「国民の生活?知ったことか!俺たちの荘園さえ守られればそれでいいんだ!」
等と公然と言うことは、ありませんでした。そう、この時までは。
王朝国家とは、この律令国家の「建前」すらも無視されるようになった時代の国家を指します。
口分田の支給は終了!セーフティーネットは完全に消滅
延喜2年(西暦902年)、朝廷は「最後の」班田収授を行いました。もっとも、この時も全国規模では行われたわけではなく、一部で行われただけという説もあります。
いずれにせよ、この年を最後に二度と口分田の支給は行われなくなりました。
全ての国民に農地を支給していたからこそ、国民の貧困を防ぐことが出来ていたのです。既に有名無実化していたものの、班田収授を完全に無くしてしまったことで、完全に国民の生活を支えるセーフティーネットは消滅してしまいました。
日本の歴史において「古代」と「中世」の区別については様々な意見がありますが、私はこの時点を以て「古代は、終わった」と考えます。「中世」という新しい時代が始まったのです。
山も野も荘園の一部になってしまった
律令国家から王朝国家への変化には様々なものがあります。その一つが「山野への荘園領主の支配」でしょう。
『墾田永年私財法』ではあくまで「墾田」の所有権だけが認められました。開墾した土地は私有地とすることを認めますが、開墾されていない山や野はみんなのものですよ、というのが律令の建前でした。
しかし、寛平8年(西暦896年)に朝廷は東大寺の荘園について、条件付きで山や野の所有権を認めてしまいます。
律令国家の末期に認められたこの「例外事項」が王朝国家においては「当たり前」になってしまい、国民は里山の利用においても荘園領主である貴族や有力寺社の許可をもらわないといけなくなってしまいました。
荘園でない土地は「公領」として再編された
最後の班田収授が行われた延喜2年、醍醐天皇は『荘園整理令』という命令も出しています。
これは荘園とそうでない土地とをはっきりと区別する、ということを目的に出した命令です。これまでにも触れたように、本来荘園ではない口分田が荘園の一部として扱われることも少なくありませんでしたから、これ自体は真っ当な法令です。
しかし、これで「荘園ではない」と認められた土地は改めて口分田として支給されたのか、というとそうではなくて「公領」となりました。
公領は建前上朝廷の土地なのですが、そのほとんどで国司たちは公廨稲制を利用し、百姓たちから好き勝手に搾取していました。つまり「朝廷の領地」というよりも「国府(国司)の領地」となっていたのです。これを「国衙領」といいます。「国衙」とは「国府」の別名です。
そうなると朝廷の中央の官庁の財源が足りなくなります。そこで、朝廷は一部の官庁の財源として、公領の一部を「諸司田」としました。諸司とは官庁のことで、各官庁が公領の一部を管理しその収穫を収入とするのです。
こうした諸司田を始め中央政府の財源となった公領は「官衙領」と呼ばれました。
官衙領は中央の官庁が管理するわけですが、中央の人がわざわざ地方に出向いて直接管理するわけではなく、地元の人たちに管理を委任することとなります。この委任された管理人を「在庁官人」と言います。
実は、国衙領も同じでした。こう言うと
「え?国司は地方に出向いているんじゃないの?」
と言われる方もいるかもしれませんが、それは国司が真面目に仕事をしていた時代の話。
班田収授すら行わず、百姓のことなどどうでもいい国司たちは、自分の収入さえ手に入ると真面目に仕事をする気など、毛頭ありません。仕事どころか、任地にいくことすら面倒になります。
そこで国司たちも地元のことは部下である在庁官人に任せ、自分たちは京都で国衙領から上がってくる利益だけ受け取って生活するようになりました。つまり、荘園領主たちと同じようになったのです。
こうした体制を「荘園公領制」と言います。
貴族の荘園では法律が通用しない事態に
さて、王朝国家も時代が下ると貴族たちは更なる特権を認めさせるようになります。それは「不輸の権」「不入の権」です。
「不輸の権」とは「税金を払わなくてもいいよ!」という特権です。
「不入の権」とは「公務員の立ち入りを拒絶してもいいよ!」という特権です。
これがさらに進み「検断不入の権」という特権までもが認めさせられました。
これは「貴族の荘園では朝廷は犯罪捜査も出来ない」という、トンデモナイ特権です。
どういうことか。例えば、藤原氏と親しい犯罪者が仮に人を殺したとしても、藤原氏の荘園に逃げ込めば、朝廷は藤原氏側が自発的に身柄を引き渡さない限り、彼を逮捕することは出来ません。
無論、さすがに貴族が殺人犯と親しくなることは現実問題あり得ませんが、貴族やその仲間たちが犯罪をしても事実上取り締まることは出来なくなったのです。
こうなると、人々はもう法律による保護を期待できません。「自分の身は自分で守る」しか、無いのです。
そう、それが「武士」の発祥です。
この武士を率いたのが「侍」と言う身分の人たちでした。
「侍」と言うのは、今では「武士」の別名となっていますが、元々は「貴族ではない役人」の総称です。
当時、朝廷の官職は藤原氏によってほぼ独占されていました。貴族と呼ばれるのは「五位以上の官位を持った役職に就く役人の家系」です。(「五位以上」と言うのは、今でいうと「事務次官級以上」というニュアンスになります。)
従って、藤原氏以外では元々貴族の家系だったはずが、事実上「貴族」の身分を失い「侍」の身分に落ちぶれてしまう人が続出しました。その中でも、特に源氏と平氏にそう言う人が少なくありませんでした。
そこで、源氏と平氏の人たちは武士を率いて実力でのし上がろうとしていくのです。
王朝国家は「権力闘争に明け暮れて国家の私物化を推進する貴族」と「貴族に支配されながらも実力で這い上がる武士」とによって動いていくことになります。律令国家の理念は、跡形もなく消えてしまっていたのです。
今の時代の政治家に通ずる「表忠臣、裏朝敵」
なお重要なことは、貴族たちは表では
「私こそは天皇陛下の忠臣であるぞ!」
と言う顔をしていた、ということです。
無論、阿衡の紛議の例からもそれが「建前」であることは判るのですが、中々「本音」を表に出しません。
今の日本の自称保守の政治家もそうですが、本当は尊皇心など欠片もないのに、「天皇陛下万歳!」とパフォーマンスをするのが、この国の権力者の常です。
ところで、ここで疑問に思う方はいないでしょうか?
藤原氏は天皇陛下に「謝罪」させるほどの権力者になったのです。なのに、どうして、形だけであっても天皇陛下に忠誠を誓うのでしょうか?
過去、権力を失った君主が滅亡せずに続いた例としては、イスラム帝国のアッバース朝があります。
アッバース朝のカリフは次第に政治的実権を喪失しますが、西暦8世紀から西暦16世紀までの長きにわたりイスラム世界の最高権威として存続し続けます。
そして、アッバース朝滅亡後はオスマントルコ帝国の皇帝を除き「カリフ」になったものはいません。オスマントルコ帝国滅亡後は、「ダーイシュ」(自称「イスラム国」)が「カリフ」を名乗ったことはありましたが、殆どのムスリムからは相手にされませんでした。
このことから判るのは、日本における天皇陛下の地位はイスラム教におけるカリフのような地位だったのではないか、ということです。アッバース朝以上の権力者はイスラム教徒の中に沢山いましたが、彼らは「カリフ」を名乗れませんでした。
藤原氏も天皇以上の権力を握りながら、遂に「天皇」にとって代わることは出来ませんでした。
天皇陛下には、世俗の権力では侵害できない、宗教的権威が存在していたのです。