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関ヶ原「問い鉄砲」は実は本当だった?――“実証史学”の罠

 戦後の日本の歴史学では「実証史学」が重視されてきました。
 実証史学とは、簡単に言うと「史料は疑ってかかるべき」「同時代に出来た一次史料にない後代史料(二次史料)の記述は特に信憑性が低い」というもので、この立場に立つ学風を「疑古派」とも言います。
 それに対して、史料の記述を重視するのを「釈古派」と言います。とは言え、今の時代では疑古派と釈古派という言葉が死語になるほど、疑古派が圧倒的に優勢です。
 皆様も一度は聞いたことがあるであろう「邪馬台国はどこにあったか判らない」(=一次史料が少ないから)や「神武天皇は架空の人物だ」(=二次史料にしか根拠が無いから)と言った話は、この「実証史学」に基づく「疑古派」の主張です。こうした主張が教科書を席巻していることからも、如何に疑古派が歴史学の主流を占めているかが判ります。
 こうした姿勢は海外の歴史に対しても及んでおり、世界の歴史学界では中国最初の王朝である夏王朝の実在はほぼ定説となっていますが、日本では未だに夏王朝架空説を唱える学者が少なくありません。その理由は夏王朝の時代の遺跡から文字史料が出土していないからですが、それを言い出すと文字記録が残る以前からの伝承は全て架空となってしまいます。(なお、私は夏王朝実在説の教授のゼミで学びましたが、教授からは自分の説を疑う様に言われたため、教授の説を鵜呑みにしたわけではありません。念の為。)
 挙句の果てには「お釈迦様も何百年もあとの史料にしか登場しないから、架空の人物である」というような議論まで行う人が出てくる始末です。確かに古代インドでは文字記録を残す文化が無かった訳ですが、こうした極端な「疑古派」の立場は日本の歴史学界に悪影響を及ぼしているとしか思えません。
 当たり前の話ですが、古代史において一次史料が残っていることは、極めて稀です。一次史料が充分にないと何も語れないとなれば、古代史は「謎だらけ」「永遠に謎のまま」となります。

 実は、近世史でも同じ問題があることを知りました。
 最近、ネットニュースで歴史学者や歴史マニアが良く「関ヶ原の戦いの○○は実は無かった!」と言う記事を書いています。
 近年は歴史学者が自ら「常識を覆す新説」を素人でも判りやすく書いてくれることも増えたので、近世史にでは素人である私もそうした記事を読んで胸を躍らせてきました。
 その一つが「問い鉄砲は実は無かった!」というものです。
 「問い鉄砲」とは、ご存知の方の方が多いでしょうが、関ヶ原の戦いの際に徳川家康が中々裏切らない小早川秀秋の陣に鉄砲を威嚇発射し、驚いた小早川軍が慌てて徳川家康側に裏切った、という逸話です。
 ところがこの話、実は一次史料には根拠が無く、なので「問い鉄砲は存在しなかった」という説が現在急速に広まっています。これは「一次史料にない説話は疑え」という「疑古派」の立場が近世史でも適用されているということです。
 私自身も漠然とその新説が正しいと思っていたのですが、実はその「新説」こそが「間違い」だという指摘があることを知りました。
 それが今年出版された国際日本文化研究センター名誉教授の笠谷和比古先生の著書『論争 関ヶ原合戦』です。
 笠谷和比古先生は歴史教科書の執筆者に名を連ねるほどの近世史の権威です。一方、近世史においてそれこそ「常識を覆す新説」を多数発表もしています。
 笠谷和比古先生の新説で代表的なのが「二重公儀体制論」です。これは関ヶ原の戦いの後も豊臣政権が存続しており、豊臣体制と徳川体制で京都を境に東西分有したという説です。
 この説の是非には賛否両論がありますが、笠谷和比古先生の仮説を巡って議論が行われたことにより、豊臣政権から徳川政権への移行に関する研究が大きく前進しました。仮説とは「検証可能性」があるものですから、検証の結果間違っていてもその検証の作業により学問は発展するものなのです。
 また、戦後の偽作説の根強い「和田家文書」の「寛政原本」についても江戸時代の文書であるという鑑定結果を発表しました。
 こうした笠谷和比古先生ですから、関ヶ原の戦いにおいて「問い鉄砲」は架空であるという新説を裏付けるような「常識を覆す発見」をされるのか、と思ってこの本を読むと、意外にも「問い鉄砲」の存在を肯定されていました。
 その前にまず「問い鉄砲」架空説の根拠を上げると、大きく次の二つに収斂されます。

①    「問い鉄砲」についての同時代史料(一次史料)の記述はなく、あるのは全て後世に編纂された「二次史料」だけであるから、その存在を裏付ける根拠に乏しい。
②    そもそも小早川秀秋は山頂に陣を構えていたが、当時の鉄砲は山の下から徳川家康が鉄砲を撃ったとしても、山頂まで聞こえなかったからこの説話の信憑性は低い。

 これだけ聞くと「なるほど、問い鉄砲は存在しなかったのか」と思う方は多いでしょう。
 が、笠谷和比古先生は上記に対してこう反論するのです。

①    一次史料にないだけで二次史料の内容を全否定は出来ない。特に現代人の目から見て「話が出来過ぎている」と言うだけで二次史料の内容を否定するのは、否定する根拠に乏しい。
②    小早川秀秋自身は山頂にいたとして、山頂「だけ」に陣を構えていたとは考えられない。何千人もの軍勢が山頂に固まっていたはずがなく、当然山の麓にいた部隊もいた。

 そして、問い鉄砲について記されている『備前老人物語』という二次史料の内容を精査、それによると徳川家康は「問い鉄砲」について「軍事演習であった」という言い訳をしており、つまり徳川側は「演習」と言い訳が出来るほどの小規模の鉄砲を山の麓の小早川側の部隊に聞こえるように発射した訳であり、山頂までは聞こえていない以上、それが聞こえなかった一次史料に問い鉄砲の話が載っていないのは不自然ではないとします。
 無論、私は『備前老人物語』の史料性格について笠谷和比古先生の主張が正しいか判断できるだけの知識はありません。
 しかし、「第二次史料だという理由だけで一律排除するのは、史実の解明にとってむしろ有害ですらある」という笠谷和比古先生の釈古派的な方法論には大いに共感します。
 言うまでも無いことですが、二次史料の内容を根拠に仮説を立てた場合、後世になって「新史料の発見」や「新解釈の登場」によって否定される可能性は、高くなります。が、そもそも学説とは「検証可能性があるもの」ですから、第三者の検証によって否定されることがあるのは当たり前の話です。
 むしろ「この史料は信用できないから、取りあえず疑う」というのは、私の目からすると「第三者の検証によって否定されるのが、怖い」だけでは?という風にしか思えません。
 例えば、私は夏王朝実在説ですが夏王朝の遺跡とされるものを検証した結果、もしかしたら「ここは夏王朝ではなかった」という明確な証拠が将来出て来るかも、知れません。しかし、それでも良いのです。
 むしろ明確な証拠もないのに夏王朝実在説を検証もせずに「実在の証拠が充分ではない」と言って切り捨てる方が非学問的な態度でしょう。神武天皇についてはその態度がより顕著です。
 一次史料の比較的多い近世史でも二次史料の内容を再評価する動きがあるのですから、古代史でも二次史料の内容を無視することなく議論することが必要であると考えます。


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