【奉祝・紀元節】「神武天皇実在説」が成り立つ学問的な理由
我が国では保守派の中にも「神武天皇は学問的には架空で決まっている!」と言う方がいますが、それは違います。
詳細はかつて私が書いた『選報日本』の記事を参照してください。
それにしても、未だに「百歳以上生きた天皇がいたはずがない!神武天皇は架空だ!!」と叫ぶ人がいるのには驚きました。
神武天皇架空説論者は崇神天皇や応神天皇については実在と言う人もいますが、崇神天皇も応神天皇も没年齢は百歳を超えています。
「百歳以上生きていたから架空だ!」と言うのであれば、雄略天皇も百歳以上生きていたと記録があるのですから、架空人物ですね。
じゃあ、第21代目の雄略天皇までみんな架空だということにすると、大和朝廷が始まったのは西暦6世紀からとなりますね。
うん?それじゃあなんで、これまでの歴史学者(&教科書)は強引に「倭の五王」を大和朝廷の天皇に結び付けてきたんでしょうね?百歳以上生きた天皇は架空なんじゃなかったの?
まぁ、素人をからかうのはこれぐらいにしておきましょう。マトモな歴史学者で「神武天皇は百歳以上生きたと書いてあるから架空だ!」何って言っている人はいませんから。
当時は一年を二年と数える「倍数年暦」が使われていたという説もありますし、また、伝承の過程で様々な逸話が誇張されるのもよくあることです。
神武天皇架空説と神武天皇実在説の論点は、あくまでも「神武天皇の説話の元になる話はあった」派と「いやいやいや、一から十まで造作だったんだ」派の対立です。
しかしねぇ、「一から十まで造作だ!」と証明するのは難しいよ~。
「無かったことの証明は悪魔の証明」と言いますからね。
神武天皇の説話が造作とは言えない理由については、『選報日本』にも書きましたが、例えば『古事記』にこういう記事があります。
浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。この時、登美の那賀須泥毘古、軍を興して待ち向へて戦ひき。(略)今者に日下の蓼津と云ふ。
この説明は『選報日本』にこう書きました。
神武天皇が長脛彦と戦った最初の場面として著名だが、ここで注目すべきは神武天皇が今の「日下」まで船で「渡」って来た、ということである。この「日下」は今の東大阪市だ。当然、海から船で行くことは出来ない。
だが、弥生時代中期以前までの間はここに「河内湾」と呼ばれる湾が広がっていた。弥生時代以降になるとここは「河内湖」となり海とは切り離され、さらに『古事記』『日本書紀』の編纂された奈良時代には河内湖は消滅している。
つまり、この記述は後世の造作では不可能であり、弥生時代中期以前に神武天皇が実在したことを示す強力な証拠となる。
その他、神武天皇実在説に立った研究の成果については、古田史学の会の伊東義彰さんの『神武が来た道』も参考になるので読んでください。
ま、既に『選報日本』の記事に書いたとおり、そもそも多くの学者は神武天皇実在説の是非に興味が無い、と言うのが現状なんだけどね。