「死とは何か」
仏教によると、最悪の転生先である地獄に落ちると、鉄槌で打たれる、鉄串で刺される、焼けた鉄の玉を食わされる、火で焙られる、燃え盛る炎に突っ込まれる、釜で煮られる、剣で手足を切断される、舌にカギをかけて引っ張りまわされる、猛獣に食われる…死んでからこんなところには絶対に行きたくないよぉ。
だったら、生きてる間に善行を積め、と言われても、還暦を過ぎたし、もう遅いですがなぁ(涙)。
脳を発達させた人類にとって、死をどのように解釈するかは大きな問題であった。統治する権力者が最初にやったことは、道徳の確立、つまり宗教で死後の世界を体系化することであった。
神と仏、霊魂を生み出して、黄泉の国、六道輪廻、極楽浄土、幽冥界、煉獄、終末の審判及び天国と地獄、輪廻転生、もう一つ、自然への回帰と、実に様々な世界を創って来た。
ちゃんとした哲学や学問となっているから不思議な感じがする。死に対して、人類はそれだけ苦労して頭を使って来たわけだ。
俺にとっては、死は完全なる無(Nothing)である。そこに意味や理由を付けたりする何かも思考も何もない。肉体も精神も朽ち果てて無となり、もし何かあるとしたら、俺に関わった生きてる人間の心の中に思いが残るだけのこと。
死の問題を巡って、これまで宗教が提示して来たような決定的な基盤の上に立つことは、もちろんできない。死は直面すると、物語で逃れようのない現実なのだから。
だから、自分なりの死生観を持つしかないだろう。そもそも宗教的思考に現実を倫理的に扱う能力はないと俺は考えるし。宗教の役割は、癒しと、現実に起こった死に対して満足と納得を与えることにあると思う。
でも、宗教は決してムダではない。生きて行くに当たって、個人の中において、抽象化した概念は必要不可欠のものと考えるからだ。人間にとって精神は肉体を超えるほどの力を持つからね。
で、俺の死生観とは、「生きているのなら生きる、死ぬのなら死ぬ」、それだけです。
しかし、確かに、死後の世界があれば、死ぬのは怖くないわね。俺が怖いというか、恐ろしいというか、どう納得すれば良いのかわからないのは、今、生きてこうして考えて存在している自分が、死ねば、全て無になってしまうこと、その無ということも認識できなくなることだ。
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