「自殺会議」
去年のFBから…。
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俺は、どうしても自殺を完全否定できない。完全否定するための答えが見つからない。
もし、身近に死ぬという人があれば、「止めた方がいいんじゃない、きっと悲しむ人がいるよ」くらいは話すと思うが、それでも死ぬというのであれば、何も言うことはできないだろう。
下世話な興味として、他人が自分の意思で死ぬ瞬間を見たい気もする。衝撃的で怖いだろうけど。
何かに負けて絶望して死を選ぶネガティヴな自殺より、大好きで尊敬する三島由紀夫先生のように独自の美学を完成させるために(勝手に思ってるだけだけど…)、自ら死に赴く積極的自殺は、自分じゃ絶対できないだけに、強い憧れとともに自殺といっても一種の表現活動として見ることができる。それは死を現実的に見てないからかもしれないが。
ガキの頃から、よく自分が死ぬこと、死んだ後のことを妄想する。ある日突然、こういうやり方で死ねば、皆はどう思うかなぁ、なんてね。
これまで自殺関連本もけっこう読んできたつもりだ。それだけ自殺に対する興味があるわけだが、自殺を思っても実行しようとはまだ思わない。自殺なんかしなくても、人間、死ぬ時は死ぬんだし、なるようにしかならん。麻痺のカラダや親のこと、今の状況などを思えば、厭世的気分には容易になるけどね。
大学生の時、普段、付き合いの悪かった知り合いから、「今日は俺が奢るから飲みに行こう」と誘われ、朝方まで飲んで食って騒いだ。翌日、彼は自殺してしまい、「ああ、昨日の宴会はお別れだったのか」とビックリしたことがあった。同じ頃、岡田有希子の飛び降り自殺もあって見に行った。その辺りだったかな。デュルケームの「自殺論」なんぞから読み始めたのは。
人間は生きることが当たり前で、それもクスリを使ってでも、なるべく長くが良いとされ、しかも、生きてる間は常にポジティブで上を目指さなきゃならないように思ってるが、それが重荷になってるんであれば、別に下を見ても、平行線であってもいいじゃないかと最近は思う。
末井昭さんの自殺の本はこれで2冊目。自殺に縁のあるいろんな人たちへのインタビューが中心。
前の本も面白く読んだが、母親が愛人とダイナマイト自殺したという凄まじい経験を持つ末井さんだけに、自殺する人に対する視点がとても優しい。
「自殺する人は感度のいいアンテナを持ってて、極端に言えば、自殺でもしなきゃやってられない世の中なのだから、自殺する人はその犠牲者で、自分は何も考えずに図太く生きてる感じがして、自殺する人に引け目を感じている」という。「さっさときっぱり死ぬ人も潔くてカッコいいけど、例え、死にたくなるような世の中であっても、もがいたり、苦しんだりしながら、生き残ってる人もまたカッコいい」とも。